神殿をかたどったような装飾が施された「奉安室」跡。鉄製の金庫扉はダイヤル鍵で施錠されている=鹿児島市役所本館
太平洋戦争末期の空襲で、鹿児島市街地は焦土と化した。米軍の弾雨をくぐり抜け、奇跡的に焼け残った建物の一つが、1937(昭和12)年完成の市役所本館(山下町)だ。降り注いだ焼夷〔しょうい〕弾や機銃掃射の記憶とともに、戦争に突き進んだ社会の空気を今に伝える語り部でもある。
正面玄関を入り、そのまま階段で3階まで上ると、「奉安室」跡はある。入り口には神殿を思わせる装飾が施され、観音開きの重厚な鉄製扉で守られている。戦前・戦中は、天皇の「御真影」が置かれた特別な空間だった。
今は秘書課の倉庫として使われている部屋は、幅約3・6メートル、奥行きは2・3メートルほど。戦時中の雰囲気を残し、側面は金地に繊細な文様が描かれた壁紙が貼られている。北側には、扉の付いた棚のような小部屋があり、写真などが安置されたとみられる。
当時の資料によると、「御真影奉安室」は防湿耐火耐震づくり。壁と天井は壁紙で装飾し、室内の「奉安所」はすべて桐材で仕上げた。換気装置も備えており、部屋正面の扉については「金庫扉トス」と記す。
現在、市役所の職員は約3300人。すべて戦後生まれで、戦争体験者はいない。当時の庁舎の話を聞く機会もない。職員の一人は「こんな部屋があったことは知らなかった。気に留める人もほどんどいない」と話した。