魚見岳と知林ケ島を望む指宿の浜辺に駐機した水上飛行機(指宿市の馬渡写真館提供)
1945(昭和20)年に終結したアジア・太平洋戦争は、日本現代史の大きな転換点だ。自国民だけで310万人といわれる死者を出した痛恨事の先に、現代がある。今年は敗戦から80年の節目。あの時、この鹿児島で、どんな光景が繰り広げられていたのか。忘却の闇に葬ったり、美化や物語化に委ねたりするわけにはいかない記憶を、改めてたどる。
1941(昭和16)年12月8日の対米英開戦以降しばらくの間、一般市民にとって戦場は遠い海の向こうだった。東南アジアのほぼ全域や中部太平洋から西太平洋の広い範囲が日本軍の勢力下にあったからだ。だが、1年もせずに米軍の反攻は本格化した。日本軍は消耗しながら後退を余儀なくされる。
戦況の悪化を受けて九州南部、特に鹿児島県内各地に軍の飛行場が急造された。日本本土に着々と近づく米軍との「決戦」への備えだ。
45年3月、1500隻以上の米艦船が沖縄周辺に終結した。沖縄が陥落すれば、次は九州だ。いや、一足飛びに関東が攻められ、首都が危ないかもしれない。沖縄で米軍を撃退できないにしろ、足止めにして本土侵攻を遅らせたい-。そんな状況下で日本陸海軍が戦法の主軸に据えたのが、特別攻撃(特攻)だった。
爆弾を搭載した航空機で乗員もろとも敵艦に体当たりする。兵士にとっては十に一つの生還の見込みもない、「十死零生」の自爆攻撃である。
■第1弾は3月11日
海軍は第五航空艦隊司令部があった鹿屋(鹿屋市)に加え、串良(同)、鹿児島(鹿児島市)、出水(出水市)、国分第一(霧島市)、国分第二(同)、指宿(指宿市)。陸軍は知覧(南九州市)、万世(南さつま市)などから特攻機が飛び立った。
県内からの第1弾は沖縄戦の前段階、45年3月11日の「菊水部隊梓特攻隊」だ。鹿屋を離陸した陸上攻撃機「銀河」24機を大型飛行艇「二式大艇」3機が誘導し、ミクロネシア南部カロリン諸島の補給・休養拠点で日本侵攻に備える米機動部隊を強襲。隊員53人が戦死した。
この出撃を皮切りに、8月13日までの約5カ月間、県内飛行場からの航空特攻出撃が続いた。沖縄で日本軍の組織的戦闘が終わったとされる6月23日以降も、17~23歳の若者を中心に編成された特攻隊が沖縄周辺の米艦船を目標に次々と飛び立った。
県内から出撃して帰らなかった隊員は約2200人に上る。航空特攻の戦没者約4千人の半数を超える人数だ。
■発案、実行の経緯
特攻は戦況挽回が絶望的になり、焦った軍首脳が苦しまぎれに出した命令というわけではない。
先駆けとして知られるのは、44年10月にフィリピン・マバラカットから出撃した「神風〔しんぷう〕特攻隊」だ。1番隊から4番隊の名称「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」は、本居宣長の和歌〈敷島の 大和心を人問はば 朝日に匂ふ 山桜花〉に沿って名付けられた。
フィリピン中部・レイテ島沖の米艦船に突入した敷島隊は、空母を撃沈するなど戦果を挙げた。敷島隊隊長の関行男大尉は大和魂で国に殉じた「軍神」として大々的に報じられた。
この攻撃を現地で指揮したのが、大西瀧治郎・第一航空艦隊司令長官だ。「特攻生みの親」として語られることが多い。だが、現地司令官の独断で兵士の死を前提とした出撃が実行されたとは考えにくい。
天皇直属の最高統帥機関である大本営の関与は間違いない。だが、誰が発案し、どんな経緯で軍の意思決定がなされたのかを伝える公的記録は存在しない。
戦後の1980~91年、計55人に及ぶ海軍の元幹部が非公開で語り合った「海軍反省会」の記録に、「43年8月に軍令部第二部長が特攻作戦を要求していた」との元連合艦隊参謀の発言がある。開戦から2年足らず、国民が日本軍の快進撃を信じていた時期、すでに構想が生まれていた事実がうかがえる。
「統率の外道だよ」。神風隊を送り出した大西司令長官は特攻について、こうつぶやいたと伝わる。当時のエリートが集まった海軍兵学校で世界の戦史や戦術、統率学を学んだ提督にとって、兵士の死を前提とした自爆戦術は本来あり得なかった。にもかかわらず、出撃命令を出し続けた。
■意義への問いかけ
特攻は経験を積んだ搭乗員と一線級の機体を投入した初期こそ一定の成果を挙げたが、米軍側は素早く対策を具体化した。優れたレーダー監視網を整え、目標に命中しなくても近づけば爆発する対空砲弾で日本軍機を迎え撃った。特攻機は敵艦に近づくことさえ難しくなった。
それでも日を追うごとに陸海軍共に依存度を高めていった。沖縄が陥落していよいよ本土決戦となった頃には、民間人も残らず戦う「一億総特攻」が公然と叫ばれた。
特攻は航空だけではない。潜水艇や小型艇を使った特攻が作戦化され、一部実行された。全ての特攻による死者は、6400人以上とされる。
隊員の死の意義を問われたとき唯一の正解は存在しない。一つの見方に固執せず、史実をたどり、考察を深めることで歴史認識を醸成するしかない。
●水上機、練習機まで投入
鹿児島県内の航空特攻基地跡の多くで毎年、追悼式や慰霊祭が営まれている。出撃が相次いだ春から初夏にかけて日程が組まれる。最も大規模なのは、陸軍の飛行場があった南九州市の「知覧特攻基地戦没者慰霊祭」。今年も例年通り5月3日、特攻平和観音堂前に遺族や関係者約700人が出席して開催された。
5月27日に85人が参列して「哀惜の碑慰霊追悼式」が開かれた指宿は、知覧に比べれば知名度は低い。
1944(昭和19)年1月に第453海軍航空隊が置かれ、機体の下に大きな浮き船(フロート)がある水上機が配備された。水面に離発着でき、滑走路が必要ない。偵察や観測、遭難者の救助に能力を発揮する一方で、フロートの重さや空気抵抗のため高速飛行や機敏な動作はできない。
それでも、4月29日から7月3日まで計44機の水上機が指宿から特攻出撃し、82人の戦死者を出した。鈍足、鈍重な機体が敵の迎撃戦闘機に狙われればひとたまりもなかったろう。
日本陸海軍は水上機だけでなく、速度や敏速性に欠ける旧型機や練習機まで特攻に投入した。戦果よりも、特攻出撃そのものに意義を見いだしていた証左である。
(2025年6月1日紙面掲載)