83年前のあす12月8日、旧日本海軍の機動部隊が、ハワイ・オアフ島の米太平洋艦隊と基地に大規模な奇襲を仕掛けた。対米戦争の端緒となった真珠湾攻撃である。
世界の軍事史に残る大胆な作戦の成功例とされる一方で、日本の国力を注入し、300万人を超える命が犠牲になった総力戦の幕開けでもあった。その後の日本の歩みも含めて多面的に現代史上の意味合いを捉えることで、教訓や今後の指針を見いだせるはずだ。
対米関係の悪化を受け山本五十六・連合艦隊司令長官が部下に対米開戦を想定した作戦立案を指示したのは1941年1月だ。鹿屋市の海軍航空基地にいた第11航空艦隊の大西滝治郎参謀長を中心に、作戦が練り上げられた。
鹿児島県内の軍事施設や周辺海域で秘密裏に実戦的な訓練が繰り広げられた。鹿児島湾を真珠湾に見立てた雷撃訓練で、連日、鹿児島市街地の建物をかすめて艦上攻撃機が飛び交うのを多くの市民が目撃した。
同時に戦争回避の外交交渉も続けられた。米側の要求は日本政府の考える国益を大きく損ねる内容で、双方譲らなかった。同年12月1日の御前会議で開戦が決まり、決行に移された。
国力の差が明らかな大国を打ち負かすには、思い切った戦法で不意を突くしかない。北太平洋上で察知されずに空母6隻を含む大艦隊を移動させ、延べ約350機の艦載機で米艦隊の一大拠点を攻撃した。湾内に停泊していた戦艦4隻を撃沈するなど、ほぼ一方的な勝利と言っていい。
日本が起死回生の賭けに出て、大国の圧力に屈しない気概を示したと見ることもできよう。日本国民が沸き立ったのも無理はない。冷静に国力の差を分析し、長期戦の勝ち目は皆無であることを口にした官僚や軍人もいたが、ほぼ封殺されてしまった。
一方の米国では、フランクリン・ルーズベルト大統領が「だまし討ち」と日本への憎悪をあおり、主戦論が国内に充満した。やがて日本全土を空襲し、米兵は「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」を合言葉に焼夷〔しょうい〕弾を投下し、一般市民を無差別に焼き殺した。
(1)当時の日本の指導者たちは楽観的な展望と人命軽視の軍国主義の上にあぐらをかき、破滅に導いた(2)米国は太平洋の利権を手中にするため意図的に日本を孤立させ、戦争に追い込んだ(3)両国民は勝利の高揚感や復讐〔ふくしゅう〕心で、本来持っていたはずの倫理観や人道意識を見失った-。いろんな総括ができようが、どれも全体像を見渡した理解と言うには不十分ではないだろうか。
肝心なのは多様な観点から史実をたどり、定見を築くことだろう。一つの歴史観に凝り固まらず、論考を重ねる試みを絶やしてはなるまい。