「核のタブー」が壊されようとしていることに限りない悔しさと憤りを覚える-。核なき世界を目指して地道に活動してきた92歳の被爆者は、毅然(きぜん)と訴えた。
日本原水爆被害者団体協議会(被団協)へのノーベル平和賞授賞式が、ノルウェーの首都オスロで開かれた。代表委員の田中熙巳さんの受賞演説には拍手がやまなかった。
原爆は多くの命をむごたらしく奪った。生き残った人も心身に傷を負い、生活苦や差別に耐えた。誰からも償われない苦しみに立ち上がった被団協の歩みは、核兵器は人類と共存できないという警告そのものだ。核兵器の危険性を改めて認識し、被爆者の声を真摯(しんし)に受け止めなければならない。
被団協の運動は1945年の被爆後すぐに始まったわけではない。占領下、連合国軍総司令部(GHQ)による報道規制で、被害の実態はわずかしか伝えられなかった。米国による54年の太平洋ビキニ環礁での水爆実験をきっかけに反核運動が高揚。56年、長崎での被団協結成につながった。
結成宣言は「自らを救うとともに、私たちの体験を通して人類の危機を救おう」と表明した。田中さんは「国の存亡をかけた非常事態では国民は犠牲を受容せねばならない」との政府の主張にあらがい、戦争を始めた国による補償を求めた活動の原点を紹介した。
しかし日本政府は被爆者健康手帳の交付や手当支給は認めたものの、国家賠償は拒んだままだ。演説中「原爆で亡くなった死者に対する償いは日本政府は全くしていない」と重ねて強調した。国の態度への激しい異議申し立てといえよう。
長崎で被爆、親族の死を目の当たりにした自らの体験も交え、核の非人道性を伝えた。「たとえ戦争といえどもこんな殺し方、傷つけ方をしてはいけない」との訴えは各地で戦火が絶えない今、一層重く響く。
授賞は、国際情勢の危機に際し「核兵器使用は許されない」というノーベル賞委員会の強いメッセージが込められている。廃絶の道のりは困難でも「決して諦めてはならない」という委員長の言葉の意義は大きい。
日本は唯一の戦争被爆国として「核兵器のない世界」を模索する一方、安全保障面で米国の「核の傘」に頼る。だが現在の核弾頭は、広島、長崎の数倍から十数倍程度の威力があるという。被団協が伝える人命の尊さと人間の尊厳を踏まえ、「核抑止論」が本当に正しいのか、問い直す機会である。
被団協の活動は2017年の核兵器禁止条約制定の原動力となったが、政府はこれまで締約国会議へのオブザーバー参加すら見送っている。平和賞で関心が高まる今、日本が具体的な役割を果たしていけるかが問われている。