6434人の死者を出した阪神大震災の発生からきょうで30年がたつ。大都市を直撃し観測史上初めて震度7を記録した大地震は、防災のあり方を問い直した。
その教訓から、建物の耐震改修、生活再建支援、救助の初動や広域連携などが整備され、防災体制は強化されてきた。その後も東日本大震災、熊本地震、昨年元日の能登半島地震と日本列島を襲う地震災害は絶えない。1年たってなおがれきが残る能登の惨状は、防災体制作りは道半ばであるとあらためて突きつけている。
過疎と高齢化が進んだ能登半島で起きた地震では、道路は寸断され集落が孤立、救援や復旧も難航した。被災による人口流出の加速で地域の衰退が早まる懸念も高まっている。半島と山間地を抱える鹿児島県内はじめ多くの地域にとって防災力の向上は不可欠だ。自治体の体制を絶えず見直し、底上げする努力を重ねてほしい。
■避難所環境が課題
阪神大震災は犠牲者の約8割が家屋倒壊や家具転倒による圧死、窒息死だった。住宅被害は約64万棟。耐震基準が強化された1981年より前の、古い建物の被害が目立った。耐震改修促進法が制定され、病院や老人ホームなどの耐震診断が義務付けられた。
医療のあり方も課題となった。2005年に災害派遣医療チーム(DMAT)が発足、経験を積んだ医師や看護師らが被災地へ向かう仕組みができた。災害直後の救急医療だけでなく、高齢者施設や避難所での健康支援など活動の幅を広げており心強い。
発生から1年間で延べ約137万7000人が被災地で支援活動し、「ボランティア元年」とも呼ばれた。被災者のニーズと支援者をつなぐ仕組みがなく混乱もみられた経験から、社会福祉協議会などが災害ボランティアセンターを設置し、受け入れ先を調整する形が定着した。被災地支援への関心、支え合いの機運が広まった。
建物倒壊を原因とする直接死とは別に、災害関連死という概念も生まれた。避難生活の疲労や環境変化のストレスから体調が悪化し亡くなった関連死は921人に上り、大震災の死者に含まれている。
防災体制の整備が進んだのは間違いないが、進展に乏しい分野もある。2016年の熊本地震で災害関連死は直接死の4倍に及んだ。能登半島地震でも関連死が直接死を上回っている。
避難所の環境の厳しさが一因となっている。政府は昨年12月、避難所の運営指針を改定。1人当たり面積やトイレ数の改善に向け、国際基準を取り入れた。避難所の質向上へ、自治体任せにせず国は財政的な支援など進めるべきだ。
人口減少や高齢化といった社会構造の変化に、従来の対策も対応を迫られている。住宅やビルなど民間の建築物の耐震改修は費用負担が足かせとなり、特に高齢者が多い地域で遅れ気味だ。空き家の増加もリスクといえよう。
災害対策基本法では、市町村が第一義的に災害対応の義務を負う。だが阪神大震災当時と比較して市町村合併などの影響で職員1人当たりの業務量は増えている。職員自身も被災するなど負荷は大きく、被災自治体が業務過多となる事態が起きている。複数の市町村の協力や都道府県の支援が円滑に進むよう体制を整備しておく必要がある。
■官民で支え合って
阪神大震災以降に活動したボランティア団体では、資金と人材不足が障壁となっている。効果的な支援で、行政の手が届かない分野をボランティアが担える形を探ってほしい。
近年豪雨が多発し、能登では震災との複合災害となった。災害の激甚化に備え、インフラ維持や復興まで見据えると、防災はまちづくりの核に据えなくてはならないテーマといえる。特定の担当者だけではなく、業務継続計画(BCP)の策定など官民含めて幅広い層の心構えが問われる。
能登半島にも鹿児島県内からDMATはじめ精神医療、薬剤師、保健、介護福祉分野の専門職や自治体職員らが次々と向かった。被災地での経験はそれぞれの地元や組織に還元され、防災や復旧体制の構築につながるはずだ。
13日には、日向灘を震源に鹿児島県内でも最大震度4を観測した地震が起き、気象庁は昨年8月に続き再び南海トラフ地震臨時情報を出した。政府の地震調査委員会は、南海トラフ巨大地震の30年以内の発生確率を「80%程度」に引き上げた。
地震はいつ起きてもおかしくない。個人のレベルでもどう備えるかを考える機会としなければならない。家具の固定やレイアウト、非常持ち出し袋の点検や水や食べ物、簡易トイレの確保などできることから実行したい。