沖縄県の慶良間諸島は、那覇市の西30~40キロの洋上に位置する。1944年9月、この島々に日本陸軍が海上特攻艇の部隊配置を始めた。米軍主力部隊の上陸地域を沖縄本島南部から宜野湾にかけての西海岸と予想し、背後から体当たりで奇襲攻撃する作戦である。
ところが、米軍が真っ先に上陸したのは慶良間諸島だった。45年3月26日に阿嘉島、慶留間島、座間味島、屋嘉比島、27日は渡嘉敷島に進軍してきた。見込みが外れた日本軍は自ら特攻艇を沈め、山中にこもった。
忘れてならないのは、この時島民に起きた出来事だ。
渡嘉敷島では米軍の砲弾をかいくぐり高齢者の手を引き、子どもを背負って豪雨の山道を日本軍が指定した場所に移動した。そこで繰り広げられたのは、「天皇陛下万歳」の唱和に続く「集団自決」だ。一家が身を寄せ合って手りゅう弾を起爆させ、それでも死にきれなかった住民は家族や親族が鎌やカミソリで頸(けい)動脈や手首を切ったり、木の棒で殴りつけたりして手にかけた。この島だけで死者は330人と推計されている。(「沖縄県史 各論編6沖縄戦」)
軍人、役人、住民が共に戦い共に死ぬ「軍官民共生共死」の理念が、隅々まで浸透した地域社会が行き着いた結果である。一般県民9万4000人を含む20万人以上が命を落としたとされる沖縄戦の序章ともいわれる。
あれから80年。同じ状況が再来しない保証はない。
■「集団自決」の頻発
渡嘉敷島だけが特別だったわけではない。その後3カ月以上にわたって他の島々や、沖縄本島のあちこちの壕(ごう)などで同様の光景が繰り広げられた。
自らの意思で死を選ぶ「自決」の言葉を用いることには異論がある。各地の事件の前段にあった思想教育や軍の命令、誘導の実態を調べ上げ、「強制集団死」と呼ぶ研究者らは多い。
沖縄戦前から沖縄に駐屯した日本兵や在郷軍人は「米軍に捕まれば女は乱暴され、男は戦車にひき殺される」などと住民に吹き込んでいた。中国戦線での現地住民に対する一部日本兵の行状を目撃した帰還兵らが、米兵も同じことをするとの前提で語る言葉には説得力があった。多くの人が信じ込んだ。
住民は兵舎建設や陣地壕掘りに動員され、各家庭や学校は将兵の宿舎となった。「島を守ってもらえる」と喜んだ市民は多かったという。軍民混在の地域社会に、「生きて虜囚の辱(はずかし)めを受けず」といった「戦陣訓」の教えが染み込んでいった。あらかじめ日本兵や軍関係者から「自決用」として手りゅう弾を渡されていたとの証言は多い。
集団死に、軍の命令はなかった、との見方もある。2007年、高校日本史教科書の検定は「集団自決」に関する記述から「日本軍の強制」の言葉を削除させた。世論の批判を受けて軍の関与を認める記述に落ち着いたが、「島民は自決覚悟で、ふるさとを守った」という殉国美談仕立ての歴史解釈が、再び活発化する可能性は消えない。
沖縄で頻発した強制集団死の実相は明らかだ。戦後、生存者が心の傷をえぐりながら体験を語ってきたからだ。これらの証言を軽んじてはならない。
住民に米軍との内通の疑いをかけて惨殺するなど、常軌を逸した日本兵の行動も記録されている。「鉄の暴風」と呼ばれる米軍の激しい攻撃に追われ、日本軍からも命を脅かされた人々の視点に立って学び、想像するのは難しいことではない。
■住民根こそぎ動員
慶良間諸島に続いて4月1日、米軍は本島西海岸の読谷・嘉手納・北谷に上陸した。迎え撃ったのは鹿児島市出身の牛島満司令官が率いる第32軍だ。
住民は現地召集の防衛隊、学徒隊などとして、決戦体制に組み込まれた。戦闘継続のため、根こそぎ動員されていった。
牛島司令官ら軍人の多くは、自らの命を投げ出して戦い抜く覚悟を固めていたのだろう。問題はその目的だ。45年1月に大本営が打ち出した「帝国陸海軍作戦計画大綱」は、沖縄本島以南の南西諸島などを「皇土防衛の前縁」と定義した。その上で敵上陸の際は「極力敵の出血消耗を図り且(かつ)敵航空基盤造成を妨害す」と定めた。
持久戦を展開して敵を消耗させる。要するに本土決戦準備の時間を稼ぐ「捨て石」に沖縄を位置付けたのは明らかである。
いま、政府は「戦後最も厳しく複雑な安全保障環境」を前提に国防を語り、南西諸島の防衛強化を進める。自衛隊施設を受け入れた鹿児島県内の離島には、守ってもらえる安心感を語る住民もいる。旧軍と自衛隊が同質とは思わない。それでも、軍の論理が支配する地域社会がいかに形成されていったか、学び直す必要性は増している。