社説

[沖縄復帰53年]終わらない「いくさ世」

2025年5月15日 付

 1945年に太平洋戦争が終結し今年は「戦後80年」に当たる。国際法的に言えば、52年4月のサンフランシスコ講和条約発効によって日本は主権を取り戻し本当の「戦後」が始まった。
 一方、引き続き米国施政権下に置かれた沖縄の日本復帰は20年遅れ、72年5月15日まで待たねばならなかった。その日からきょうで53年。だが沖縄の「いくさ世(ゆ)」は終わっていない。米軍基地の過重負担や米軍人らによる性犯罪など、負の遺産は重い。歴史に無理解な政治家の発言が波紋を広げる。
 この現状がいつまで続くのか。私たちは見て見ぬふりをしてはなるまい。
 沖縄戦で学徒動員された犠牲者の慰霊碑「ひめゆりの塔」(糸満市)は、皇太子時代の上皇ご夫妻が75年夏、初の沖縄訪問の際に向かわれた場所だ。
 昭和天皇の戦争責任を巡り、複雑な感情がまだ渦巻いていた。塔に供花する際、過激派に火炎瓶を投げ付けられた。上皇さまは当日夜、談話で「この地に心を寄せ続けていく」とし、2018年までに訪問は11回に及んだ。
 国内唯一の地上戦で、県民の4人に1人が命を落としたとされる苦難を忘れない、との思いを行動で示したと言える。
 対照的なのが、今月3日の憲法記念日に那覇市であった改憲派の会合で、ひめゆりの塔の展示説明を巡る自民党の西田昌司参院議員の発言だった。
 「歴史の書き換え」「地上戦の解釈を含めむちゃくちゃな教育のされ方をしている」-。これらは県民に向けて言葉の火炎瓶を投げ付けたに等しい。確たる根拠も示さず、平和教育の取り組みを侮辱した。原因は沖縄戦への認識不足にある。撤回と謝罪に追い込まれたのは当然で、猛省するべきだ。
 国会議員は本来、県民に寄り添い、手を差し伸べる立場だろう。初代沖縄開発庁長官の山中貞則氏は、1972年の復帰前後の国会で「沖縄の苦労に対する祖国の償いに全力を挙げる」と語った。95年、米兵による少女暴行事件が起きた時、首相だった橋本龍太郎氏は地元の声に熱心に耳を傾けた。
 いまや、沖縄の味わった過酷な歴史に対する関心が政府内で薄れているのではないか。米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古移設に反対する民意を軽んじ、米兵の性暴力事件が相次いでも防止策に本腰になっているようには受け取れない。
 2015年当時、官房長官だった菅義偉氏は沖縄への理解を求められ、「私は戦後生まれ。歴史を持ち出されたら困る」と返した。記憶の風化を容認するような発言だ。不条理としか言えない沖縄問題の解決には、まず政府が沖縄に歩み寄ることを望む。
 隣県の鹿児島県民としては、沖縄の置かれた状況を理解し、寄り添う方法を考えたい。

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