社説

[沖縄慰霊の日]戦禍の証言と向き合う

2025年6月22日 付

 はじけんばかりの笑顔に心をつかまれる。はつらつと部活動や勉学に打ち込む青春はきっと、現在と変わらない。
 沖縄県糸満市にあるひめゆり平和祈念資料館の赤瓦をくぐると、目に飛び組んでくる生徒たちの写真である。沖縄が戦場になる前に、「ひめゆり」の愛称で併設されていた沖縄師範学校女子部、県立第一高等女学校の日常を伝える。
 生徒と教師のうち240人が日本軍に動員され、136人が命を失った。日本で唯一の地上戦だった沖縄の悲劇の象徴として知られた一方で、生存者の多くは長く惨状を語ろうとしなかった。「生き残って申し訳ない」と心を閉ざしてきたからだ。

■戦争の実相伝える
 沖縄戦の実相は、数多くの住民の体験や記録の蓄積によって明らかになった。
 太平洋戦争末期、アメリカ軍は1945年3月26日に慶良間諸島、4月1日に沖縄本島中部に上陸した。
 日本軍の敗色は濃厚だったが、沖縄を本土防衛の防波堤と位置付け、壕(ごう)に潜んで長期戦に持ち込む持久作戦をとった。
 沖縄県平和祈念資料館によると、米側の兵力約55万人に対し、日本は沖縄で集めた兵士を合わせても10万人ほど。兵力不足を補うため、ひめゆり隊など10代の生徒らも動員された。
 5月下旬、追い詰められた日本軍は、首里にあった司令部を捨て本島南部に撤退する。この判断も日本本土への進撃を遅らせるために時間稼ぎを続行するのが目的だった。住民の犠牲は拡大する。
 米軍による無差別攻撃に加えて日本兵にスパイ視され殺されたり、壕を追い出されたりした住民もいたとの証言は県史などに数々残る。軍隊は住民を守らなかったことを如実に示す。「捕虜になるのは恥」と信じ込まされていたため、住民の「集団自決」も起きた。軍の強制や誘導による「強制集団死」の呼び方は、内実に当てはまる。
 日本の第32軍を指揮した牛島満司令官(鹿児島市出身)が命を絶ち、6月23日に組織的な戦闘が終結した。この日から明日で80年。最後の激戦地となった糸満市摩文仁の平和祈念公園で「慰霊の日」の追悼式がある。
 世界各地で争いが絶えない今、住民の証言が持つ意味は一層重い。
 ひめゆりの元生徒らは戦後40年近くを経て、教訓と平和の尊さを訴えようと遺骨や遺品を収拾し資料館を設立、実体験を語り継いできた。

■「尊い犠牲」に疑問
 戦争は軍だけで進められた訳ではない。天皇中心の国家体制の下、軍国少女として育てられ、国に反して「非国民」と呼ばれることを恐れて戦場に向かった。反省を踏まえた展示は、国家に個人が統制された社会の姿を浮き彫りにする。
 90日余りの死闘で沖縄県出身者12万人、日米を合わせると20万人以上の死亡者を出した。
 牛島司令官の孫、牛島貞満さんは沖縄戦を調べ、むごたらしい死が「尊い犠牲」と美化されることに疑問を呈している。開戦や犠牲拡大の責任が曖昧にされかねないとの警鐘だろう。
 今年、ひめゆり資料館の展示を巡り、自民党の国会議員が「歴史を書き換えている」「自分たちが納得できる歴史をつくらないと」と述べて波紋を呼んだ。
 時の政権の都合や政治家の思惑で、歴史事実が否定・歪曲(わいきょく)される動きは過去にもあった。在日米軍基地の集中が沖縄に強いている現実を軽視し続ける姿勢と通じる。
 絶えず惨禍の証言に向き合い、死なねばならなかった人々の無念をつないでいくことが追悼となる。

日間ランキング >