近代日本は、ほぼ10年おきに国家規模の戦争を経験した。
日清・日露戦争、第1次世界大戦。そして1931年に起きた柳条湖事件をきっかけとする満州事変は37年7月7日の盧溝橋事件へとつながり、日中戦争に突入した。日本側だけで約310万人の犠牲が出た太平洋戦争に続く泥沼の道だった。
45年夏に敗戦を迎える。以来、ノンフィクション作家・保阪正康さんの言葉を借りるなら、「非戦を誓った戦後80年」を積み重ねてきた。
今後も戦後を更新していかねばならない。そのために、戦争への一歩を踏み出したあのとき、日本人が「何を誤ったのか」振り返ることが必要だ。
■首相の不拡大方針
31年9月18日午後10時半ごろ、満州を中国から分離することを主張していた現地の軍部(関東軍)は奉天駅北方の柳条湖で南満州鉄道線を爆破。それを機に、軍事行動を開始する。満州事変である。満州に「親日政権」を樹立し、対ソ戦争の戦略的拠点を確保しようとした。
それは少なくとも、「国」としての選択ではなかった。
事変発端の柳条湖事件4日後、早々と「不拡大方針」を取った首相若槻礼次郎に、天皇は「方針を貫徹するよう努力するべきだ」と伝えた。陸海軍も、収束を目指していたとされる。
関東軍は八方ふさがりに陥った。国民世論の動員で打開を図る。戦線拡大の既成事実をつくって発表。新聞が扇動した。
満州の主要部を占領した関東軍は翌32年3月、かいらい国家の満州国を建国する。当時の犬養毅首相は反対の立場だったが5月15日、海軍将校の一団に暗殺され、命を落とした。
一方、33年2月、満州事変に関するリットン調査団の報告書が国際連盟総会で採択された。「侵略」と断じられたことに反発した日本は翌月、連盟脱退を通告する。ドイツとともに国際社会から孤立していった。
「昭和の戦争」(井上寿一著、講談社現代新書)によると、連盟脱退を受け、天皇側近の牧野伸顕内大臣は「前途の為め憂慮に堪えず」と日記に記した。
日本は戦争への一本道を進んだわけではない。回避しようとする動きも、危機感を抱く声も根強くあった。その事実を、改めて思い起こしたい。
満州を実質支配下に置いた日本は、さらに華北に侵入する。
37年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋で起こった日中両国軍の武力衝突で、日中戦争が始まった。上海での市街戦に発展し、全面戦争化した。
12月には日本軍が中国国民政府の首都南京を占領。中国軍の兵士、市民らを殺傷、暴行した。日本国内を戦勝ムードが覆った。「暴支膺懲(ようちょう)(暴虐な中国を懲らしめる)」も「満蒙権益死守」も大衆レベルで叫ばれた。
「満州事変から日中戦争へ」(加藤陽子著、岩波新書)には、当初「日中両政府とも不拡大を希望しながらも、挑発には断乎応戦するとのスタンスをとった」とある。双方ともに宣戦布告を行わないまま戦闘は続けられ、ずるずると長引いた。
ここ近年、世界で起きているさまざまな「法的根拠なき侵略」の背景にも、同じような構図が見えはしないか。
■「反軍演説」で除名
日中戦争は短期決戦の見通しが外れ、日本の国民の間には「何のために犠牲を払うのか」との疑念が頭をもたげ始めた。政府は戦争の“大義”を説明する必要に迫られる。
欧米の帝国主義、植民地主義とは異なる新秩序をつくるというアジア主義の考え方が浮上。近衛文麿内閣は38年、戦争目的を「東亜新秩序の建設」とする声明を出した。
これに対し、40年2月の衆議院本会議で立憲民政党の斎藤隆夫議員は「反軍演説」を行う。代表質問で日中戦争の意義に疑問を投げ、「聖戦の美名に隠れ国民的犠牲を閑却」と、組閣間もない米内光政内閣を批判。軍部の怒りを買って除名された。
日中戦争解決のための日米交渉は暗礁に乗り上げ、日本は米国との戦争を決意した。
局地的な衝突が起き、引くに引けなくなる。「戦前」を追体験し、自分ならどう行動するか。政治家も報道機関も国民も、一人一人が問うてほしい。