1945年8月、広島と長崎で被爆した無名の人たちの詩を中心に219編を収めた「日本原爆詩集」が、70年に刊行された。当時、まだ米占領下にあった沖縄には米軍の核兵器が貯蔵されていた。
本のあとがきを読めば「あたかもその核兵器が私たちを守るものであるかのごとくに錯覚せよ、とすすめられて生きている」中で、核が現実に何をもたらしたかというところに立ち返ろうと編まれた本だと分かる。
子どもの詩も多い。「げんばく」というタイトルをつけた広島の小学生の作品がある。「あさだった/ばくだんがおち/みんな たすけてー/といっている/いぬもしんでいた/いきているいぬは/みんなほえている/まつの木の下には/となりのおじさんが/しんでいた」
広島に米国が原爆を投下してから、きょうで80年。節目の夏、広島市の原爆資料館は外国人観光客であふれている。音声ガイドの解説に耳を傾け、惨状を伝える写真や被爆者の遺品に見入り、そっと涙ぐむ人もいる。
6~7月に館を見学した外国人約千人に共同通信が実施したアンケートによると、原爆投下を「正当化できない」と回答した人が7割超に上った。唯一の被爆国・日本だからこそ発信できる「核兵器は人類と共存できない」というメッセージを、しかと受け止めた証しだろう。
一方で日本は、米国の「核の傘」(核抑止力)を前提とする安全保障政策から方向転換できずにいる。
「原爆は人類が人類に犯した最大の罪」という言葉がある。核抑止にすがる被爆国の「罪」も考えなければならない。
■非核三原則の矛盾
「核兵器を持たず、つくらず、持ち込ませず」の非核三原則を67年の衆院予算委員会で公式表明し、核軍縮に貢献したとして、佐藤栄作元首相は74年、アジアで初めてノーベル平和賞を受賞した。だが、実は根深い「核抑止信仰」の信者だった。
64年10月に中国の原爆実験が成功。中国の核武装化を恐れる佐藤氏は翌年1月、首相として初訪米し、ジョンソン大統領に「核の傘」の保証を求める。さらにマクナマラ国防長官には中国と戦争になった場合、通常兵器の攻撃にも、いち早く核攻撃を仕掛けることまで要請した。
核兵器を撤去し、日米安全保障条約を適用する「核抜き本土並み」の沖縄返還を決めた69年11月の日米首脳会談では、ニクソン大統領との間で「有事における核再持ち込み」を認める秘密合意を交わしたとされる。
国是として国民の意識に根付く日本の非核三原則が内包する大いなる矛盾-。それは時代を経て、一層深まっている。
■警鐘鳴らす被団協
自衛隊と米軍が昨年2月に実施した「台湾有事」想定の机上演習では、中国が核使用を示唆したと設定。これに対し、米軍も日本側の強い求めを受ける形で「脅し」をかけたという。
演習は最終的に、米中ともに核使用に至らない結末を迎えた。しかしいつでも相手に思いとどまらせるという確約はない。核抑止は極めて不安定な枠組みだと知っておくべきだ。
また、日米の外務・防衛当局者が日本防衛を話し合う近年の定例協議の場では、東アジアで核使用を迫られるシナリオを作り、両国の連携を探っている。
核の傘の下でオープンな議論が広まらないまま、日本の外交・安全保障政策は本質的変化を遂げつつあるのが現実だ。
確かに、核を巡る国際情勢は厳しい。ロシアによるウクライナ侵攻後、欧州では核兵器の容認論が高まっている。
今年3月、3回目を迎えた核兵器禁止条約の締約国会議には、核保有五大国や日本はもちろん、これまでオブザーバー参加してきた北大西洋条約機構(NATO)の加盟国からの出席もなかった。
「核廃絶は単なる願望ではなく、人類の生存に必要だ」。会議で採択された宣言には、参加国の危機感が投影されている。
日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が昨年、ノーベル平和賞を受賞した。被爆体験を通して「人類の危機を救おう」と取り組む歩みこそ真の平和賞にふさわしく、現代に警鐘を鳴らす。3度目の惨禍を生まない。この願いを改めて胸に刻みたい。