公明党が自民党との連立政権の解消を決めた。衆院、参院両国政選挙での敗因となった「政治とカネ」問題のけじめを求めたが、自民から納得できる回答を得られなかったためだ。
衆参選挙で有権者が突き付けたのは、自公連立政権による政治への不信だった。公明にとっては自民の旧派閥による裏金事件のあおりを受けた「共倒れ」といえた。しかし裏金事件の実態解明や政治資金制度改革は一向に進まない。民意から目を背け、変わろうとしない自民に、ついに見切りをつけた。
自民の新総裁に保守色の強い高市早苗氏が就いたことが、きっかけとなったのは間違いない。高市氏は裏金事件を決着済みと繰り返し、連立協議で公明が迫った政治改革について明確な答えを示せなかった。公明の斉藤鉄夫代表が「国民感情と懸け離れている」と指摘したのは、象徴的だった。
一方の高市氏は「一方的に離脱を伝えられた」と不満を示してみせるほかなかった。
■危機感の差あらわ
公明は連立協議で自民に対し(1)派閥裏金事件に対するけじめと企業・団体献金の規制強化(2)歴史認識や靖国神社参拝(3)外国人との共生-に関し、支持者が懸念を抱いていると伝えた。
企業・団体献金は受け皿を大幅に限定する規制強化を求めていた。歴史認識と外国人政策では認識を共有したものの、最重視した政治とカネの改革で溝が埋まらなかった。
派閥裏金事件を巡っては、旧安倍派幹部の萩生田光一氏の政策秘書が8月、政治資金収支報告書への不記載の罪で略式起訴となった。9月には旧安倍派の元会計責任者が、政治資金パーティーの販売ノルマ超過分の環流再開を要求したのは、同派の下村博文元文部科学相だと法廷で初証言していた。
新たな事態への対応が求められたのに、自民が真摯(しんし)に向き合ったとは言いがたい。国民の審判に対する「危機感」の差は、あらわだった。連立崩壊を招いたのは、反省と緊張感を欠いた自民の「おごり」にほかならない。
公明はもともと高市氏のタカ派的な言動に不信感を抱いてきた。高市総裁誕生で、政権の右傾化が進みかねないとの懸念が高まっていた。
高市氏は政調会長時代の2013年に憲法改正を巡り「国家観による政界再編が正しい姿だ」と発言。公明以外との連携を望むかのような態度も見せた。総裁選で後ろ盾とした麻生太郎副総裁は23年、安全保障関連3文書への対応を踏まえ、当時の山口那津男代表を「がん」と言い放った過去もある。
自公連立協議を前に高市氏は、国民民主党の玉木雄一郎代表とひそかに会談。裏金問題に関与した萩生田氏を幹事長代行に起用する人事にも踏み切った。長年の連立パートナーを「ないがしろ」にした振る舞いが、公明の神経を逆なでしたのは想像に難くない。
公明が自民と初めて連立政権を組んだのは1999年10月、小渕恵三第2次改造内閣の下だった。2009年から12年までの下野を間に挟み、自公連立時代は26年にわたる。
ただ、もともとイデオロギー的には自民と距離があった。連立維持を優先し、特定秘密保護法や集団的自衛権の一部行使を容認する憲法解釈の変更、安全保障法制など、譲歩を重ねた。
平和・清潔・中道を看板に掲げる公明は、「ブレーキ役」を自認してきた。しかし、何があっても自民に付いていく「げたの雪」批判はつきまとった。「公明らしさ」を取り戻せるかが課題となる。
■中道改革勢力の軸
自公連立の枠組みは、政治の安定につながってきた。四半世紀続く連立に終止符が打たれ、日本政治は歴史的な転換点を迎える。
参院選を経て政治の風景は様変わり。政権交代可能な二大政党制の試みは頓挫し、中小の政党が乱立する多党化の時代に入った。公明の連立離脱により一層の不安定化は避けられない。
石破茂首相の後継を選ぶ選挙で、公明は高市氏に投票しないと断言。早期の政権発足を目指す高市氏にとって打撃となった。首相指名選挙や国会での多数派形成など戦略の立て直しが急務となる。
政権交代の可能性が出てきたが、野党連携は見通せない。立憲民主党の野田佳彦代表は、首相指名選挙での野党間の候補一本化に意欲を示した。ただ、日本維新の会と国民民主は慎重姿勢を崩していない。
斉藤代表はきのうの会見で「中道改革勢力の軸」になると述べた。目指す国家・社会像や理念、基本政策による政界再編が起きてもおかしくない。
参院選から間もなく3カ月。政治空白の長期化を避ける責任を与野党ともに背負っていると心すべきだ。