石破茂首相が、戦後80年の歴史検証を踏まえた「内閣総理大臣所感」を発表した。「なぜ開戦を止められなかったか、政治が果たした役割、果たさなかった役割は何か」という自身の問題意識に根差した内容だ。
先の大戦では政府および軍部のトップが戦争遂行の困難さを感じながらも回避できず、国内外で多くの犠牲者を出した。
所感は、その背景に「大日本帝国憲法」「政府」「議会」「メディア」それぞれの問題点があったと指摘。とりわけ、政府が軍部に対する統制を失った状況を問題視し、開戦当時、政治すなわち文民が軍事に優越するという「文民統制」が存在しなかったと言及した。
文民統制は民主主義の根幹をなす。軍部が暴走して招いた惨禍を繰り返さないために整備された戦後日本の制度だ。
所感の終盤では、政治の側が自衛隊を使いこなす文民統制を適切に運用していく不断の努力を求め、「無責任なポピュリズムに屈しない、大勢に流されない政治家としての矜持(きょうじ)と責任感を持たなければならない」と訴えた。石破氏が歴史から導き出した教訓だろう。
過去の戦後の節目に出された「首相談話」ではあまり触れられていなかった部分と言える。
■退陣目前駆け込み
石破氏は昨年10月の首相就任以来、大戦検証の必要性を重ねて訴えてきた。
所感には、日米開戦前に「日本必敗」を予測した若手官僚らの「総力戦研究所」や、帝国議会で日中戦争を批判し除名された斎藤隆夫元衆院議員の「反軍演説」に関する記述も盛り込んだ。歴史に謙虚に学ぶ姿勢に、先の大戦を正当化する「歴史修正主義」への警戒感が透ける。
一方で、日本の植民地支配や大陸への膨張主義、開戦に至る国際情勢などについては、物足りなさは拭えない。国内のシステムの問題だけに焦点を当てているとの批判もある。
とはいえ、戦争の反省から平和国家に生まれ変わった日本の指導者が、非戦のメッセージを発信する意義は否定できない。
先の大戦を巡っては、村山富市氏による1995年の戦後50年談話から10年ごとに、終戦の日の8月15日やその前日のタイミングで、閣議決定を伴う「首相談話」を出してきた。
村山氏は、わが国が戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、「植民地支配と侵略」によってとりわけアジアの人々に多大な損害と苦痛を与えたとして「反省とおわび」を明記。「内外すべての犠牲者に深い哀悼の念」をささげた。
98年の日中共同宣言の際には、当時の江沢民国家主席が「謝罪」を盛りこむよう強く要求し、「(村山)首相談話の順守」が挿入された経緯がある。日本国内には保守派を中心に「談話が都合よく利用されてきた」との声が根強い。
2005年の小泉純一郎首相による戦後60年談話は基本的に村山談話を踏襲した。15年に安倍晋三首相が出した70年談話は、歴代内閣の立場を紹介する形で「反省とおわび」に触れつつ、「戦争に関わりのない世代に、謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」とした。
石破氏の所感は、歴代3首相とは異なる「個人の見解」という異例の形式。しかも退陣目前だ。曲がりなりにも発表できたことは評価したいが、国内外に影響の大きいメッセージ発信が「最後の仕事」になることに違和感を禁じ得ない。
■保守派から反対論
ここまで時期がずれ込んだのはなぜか。
日米関税交渉や7月の参院選などへの対応に追われた面もあろう。だが石破氏に覚悟さえあれば閣議決定した談話を8月に発表することもできたはずだ。
当初はその意向だったという。だが自民党保守派から、10年前の安倍談話で「謝罪外交」に区切りがついたとして、反対論が噴出。党内亀裂を回避するために閣議決定を断念し、発表も先送りされてきた。
高市早苗総裁は、総裁選の最中に、安倍談話を「未来志向でありベスト」として「これ以上のメッセージは必要ない」とけん制した。
石破氏が今回、アジア諸国への「おわび」の文言は盛り込まず「歴代内閣の立場は私も引き継いでいる」との記述にとどめたのも、党内保守派への配慮があったのは間違いない。中国の反応や外交への影響も気にしていたようだ。結果、中途半端な内容になった印象が拭えない。
開戦の道に突き進んだ原因にこだわるのなら、歴史家らによる有識者会議を設置し、国民的議論を喚起しながら文書を作成するべきだった。所感をレガシー(政治的遺産)と呼ぶのには甚だ疑問が残る。