1994年6月に発足した自社さ連立政権の首相を務めた村山富市氏が死去した。101歳だった。
自民、社会、新党さきがけ3党の連立合意を受けて第81代首相に就いた。社会党出身としては片山哲氏以来2人目だった。就任後には日米安全保障体制の堅持や自衛隊合憲、日の丸・君が代の容認などを表明し、社会党の基本政策を大きく転換した。
戦後半世紀にわたり保革対立関係にあった、与党自民党と野党第1党社会党の連立政権誕生は、「55年体制」に完全に終止符を打ち、その後の政界再編に大きな影響を与えた。現実主義的路線と温厚な人柄で信望を集めた村山氏は、90年代の戦後の変革期における連立政権の結節点だった。
実績にまず挙げられるのは戦後50年の95年に出した首相談話だ。先の大戦をめぐり日本の「植民地支配と侵略」を認めた上で「痛切な反省の意を表し、心からのおわびの気持ちを表明する」と明記した。自民内に反対論が根強い中、「おわび」の文言を入れることに政治生命を懸けた。戦争責任と向き合う決断だった。
その後、小泉純一郎元首相の60年談話は基本的に踏襲し、安倍晋三元首相の70年談話は歴代内閣の立場を紹介する形で言及。今月80年所感を出した石破茂首相は「歴代内閣の立場は私も引き継いでいる」と記述した。今後も日本の近隣外交の基軸として継承することが重要だろう。
93年の細川護熙連立政権の誕生で下野した自民党が、続く羽田孜内閣の総辞職直後に、社会党委員長を担ぐという衝撃的な展開で生まれたのが村山政権だった。国家指導者としての準備も意思も希薄な中での就任と指摘せざるを得ない。社会党の衰退のきっかけになったとの見方は妥当だ。
ただし就任後の村山氏は、被爆者援護法制定や、水俣病未認定患者に一時金を支払う政治解決策を打ち出すなど「戦後の負の遺産」の清算に尽力した。社会党出身の首相だからこそなし得た功績と言える。
オウム真理教による地下鉄サリン事件など大事件や大災害にも直面した。とりわけ阪神大震災では初動が遅れ、厳しい批判にさらされた。しかし発生3日後に自民で鹿児島4区選出の故小里貞利衆院議員を復旧・復興の特命担当相に任命。人事や予算など各省庁を調整する大きな権限を与え、「即決、即断、超法規」で現地の陣頭指揮に当たらせたのは評価できる。
引退後も超党派の代表団を率いて北朝鮮を訪問するなど近隣諸国との関係構築に意欲的に取り組んだ。一方で改憲の動きには反対を唱え、平和の尊さを訴え続けた。戦争体験者として「戦後の日本を何とかしたい」との思いを党派を超えて共有した政治家だった。