35歳で戦死した父は遺言状に家族への思いと人生訓を残した。「俺より尚よき一生を」「一家の柱になれ」。事あるごとに心の糧にした〈証言 語り継ぐ戦争〉 

2022/10/26 11:00
遺言状を手に、人間愛にあふれた父だったと振り返る堀之内誠さん=鹿児島市明和5丁目
遺言状を手に、人間愛にあふれた父だったと振り返る堀之内誠さん=鹿児島市明和5丁目
■堀之内誠さん(85)鹿児島市明和5丁目

 1943年12月、警察官だった父・堀之内與吉は神奈川県横須賀市の海軍基地に召集された。幼い妹3人は出征に立ち会えず、母と6歳の私で見送った。

 実家の日置市伊集院町恋之原の神社に国旗を持った人が集まり、歌で父を激励。伊集院駅を出発した汽車の車窓から身を乗り出し、名残惜しそうに手を振り続ける父の姿が脳裏に焼き付いている。今生の別れになるとは思いもしなかった。

 父は上官の身の回りの世話をする役職だったと聞いている。サイパンへ出航する時、母は横須賀まで見送りに行き、遺言状を受け取った。その後の父の足取りは分かっていない。

 44年7月、35歳で戦死。弱音一つ吐かない母だったが取り乱して泣いた。遺骨の代わりに届いたのは浜砂の入った木箱。私は「いつか帰ってくるはず」と受け入れられなかった。

 1歳の四女は病気で亡くなり、母は子ども3人を抱え、苦しい生活を強いられた。空襲には遭わなかったが、米兵から逃げるための防空壕(ごう)があり、本土決戦に備え、竹やりの訓練を重ねた。今思えば、とんでもない話だ。

 小学校での一日は天皇・皇后、教育勅語が収められた「奉安殿」に敬礼して始まった。桜島付近を飛ぶ米軍の戦闘機を横目に、戦争ごっこをして遊んだ。1、2歳上の先輩からモールス信号や手旗信号をたたき込まれた。

 終戦後は、不発弾が道のあちこちに転がっていた。ある日、年の近い親戚が拾ってきた弾を自宅のいろりで突いて遊んでいると突然爆発。命を落とした。この日、一緒に遊んでいなかったのは父が守ってくれたからだと思っている。

 父方の祖父母宅に居候していたが、叔父たち3家族が台湾や沖縄から引き揚げるのに伴い、近くの竹やぶを切り開いて家を建てた。母は行商や農家の手伝い、土木作業員など身を粉にして働き、生活を支えた。時には10キロ離れた母の実家まで食べ物をもらいに歩かなければならないほど貧しかった。

 高校進学後、19歳で鹿児島市役所に就職。父の遺言状を初めて読んだ。「俺の一生より尚(なお)よき一生を送り、母の心を安ぜしめ、子孫の為(ため)大いに努力せよ」「『渇しても盗泉の水を飲まず』、決して軍人、警察官たりし、父の子として人から指をさされる事のなき様(よう)にせよ」

 戦の最前線へ赴く非常時に家族を思い、人生訓を説いた遺言に強さと愛を感じた。警察署の庁内電話をつないで遊んでくれたこと、夜泣きをして怖いお面を見せられたこと、三輪車を自転車につないで引っ張ってもらったこと。子煩悩な父の思い出がよみがえった。何かある度に「一家の柱になれ」との遺言を糧にしてきた。

 定年退職後、父が向かったサイパンへ行った。激戦があったとは思えない平和な島だったが、戦車や防空壕跡を前に、国のために死んでいった兵士を思うと涙が止まらなくなった。

 大変な時代に、それぞれの役割を全うした両親を心から尊敬している。仏前に供えられた父の警察官姿に影響されてか、三男は鹿児島県警に就職した。父も喜んでいるはずだ。

 戦争は力の弱い者から犠牲になる。国民の総意で始まる戦争などない。愛国心を持ち、暴力ではなく話し合いを選ぶべきだ。今の平和が犠牲の上に成り立っていることを胸に刻み、二度と過ちを起こしてはならない。

(2022年10月26日付紙面掲載)

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