人でごった返す鹿児島駅に落ちた爆弾、無数の遺体…かろうじて残った6畳の防空壕で女学生の私は母の遺言を胸に暮らした【証言・語り継ぐ戦争】

2025/08/31 14:29
「塩田梨津子」の俳号で俳句を趣味にする現在の塩田律子さん=鹿児島市山田町
「塩田梨津子」の俳号で俳句を趣味にする現在の塩田律子さん=鹿児島市山田町
■塩田 律子さん(93)鹿児島市中山町

 「律子、おりこうになりなさいね」。1940(昭和15)年10月、母・岡部みつぎは私にそう言い残し病死した。享年43。父の仕事で岐阜から中国の大連に移り住み7年目、私は数えの9歳だった。

 両親と姉、兄2人、私の6人家族で、姉は長野県へ嫁いでいた。母が死んで間もなく、今の鹿児島中央高校(鹿児島市)にあった第一高等女学校近くに住む伯父夫婦の養子となった。

 養父母は50代で子どもがいなかった。養父は新聞社勤務で、私は家を守る養母に厳しく育てられた。大連から様子を見に来た長兄が、好きな読書もせず養母に従う私を見て「かわいそうだ」と泣いたほどだった。

 養母との関係に悩むたび、「人の言うことを聞き、周りをよく見て、迷惑をかけない」という実母の遺言を思い出した。言葉の意味を考え、おりこうにしていれば家族と会えると期待していた。

 しかし太平洋戦争が始まると「もう会えないかもしれない」という覚悟に変わった。44年9月に陸軍少尉の長兄がインパール作戦で戦死した。実父に届いた骨つぼには遺書だけがあったという。

 初めて戦争の恐怖を体験したのは、45年4月8日。鹿児島市立高等女学校1年生だった。友人と甲突川沿いを散歩中、空からごう音が響き、見上げると敵機の機銃掃射だった。

 民家に飛び込み無事だったが、外は爆撃であちこちから火の手が上がった。わが家は焼け、長兄にもらった宝物のげたも灰になってしまった。

 家を失った私たちは、空襲前に敷地に掘った深さ2メートル、広さ6畳ほどの防空壕(ごう)で暮らした。空襲は怖かったが、壕で近所の人とごはんを食べたり、おしゃべりしながら玄米つきをしたりして、安らいだ時間もあった。

 6月17日の鹿児島大空襲は雨が降り、壕の床下にたまった雨水で焼夷(しょうい)弾の猛火を消した。養父の話では、敷地には不発の焼夷弾が百発以上あったそうだ。

 焼け野原になった市街地は実に遠くまで見通せた。7月27日の昼、ドーンという音で見渡すと、鹿児島駅前にあった松の木の辺りから煙が上がるのが見えた。私は近所の子の手を引いて一目散に壕へ駆け込んだ。

 警報が解除され、上町に住む親友の安否を確認しに行った養父が、泣きながら帰ってきた。列車の発着でごった返す鹿児島駅に爆弾が落ち、足の踏み場もないほど無数の遺体が横たわっていたという。遺体をまたいで進むしかなかったのだろう。むごい光景はどれだけ怖かったか。

 養父は47年に事故で亡くなり、養母は私が61年にみとった。亡くなってすぐ夢に現れ、「お前は偉かったよ」と言葉をかけられた。実母の遺言を守ってよかったと救われた思いだった。

 岡部家の家族に再会できたのは戦後になってから。大連に残った父と次兄が高知の親戚宅に身を寄せていた。戦争に負けたとはいえ、平和になったのだと実感した。

 海外で続く戦争のニュースを見るたび、家族と離れ離れになり、不安と寂しさを抱えたあのころの記憶と重なる。一日も早い平和を願ってやまない。

(2025年8月30日付け紙面掲載)

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