戦後の知覧。日の丸が描かれた軍用機に火を放った。連合国軍の指示だ。悔しかった…じゃあ、日本が勝てばよかったのか。答えは出なかった

2025/09/15 10:00
死と直面した当時を語る松村佳純さん=鹿児島市錦江台3丁目
死と直面した当時を語る松村佳純さん=鹿児島市錦江台3丁目
■松村佳純さん(83)鹿児島市錦江台3丁目 

 枕崎に初めて空襲があった1945(昭和20)年3月18日、薩南工業学校建築科2年の級友約30人とともに枕崎の浜辺にあった陸軍の臨時造船所に学徒動員され、住み込みで作業していた。肌寒いがよく晴れた日で、もうすぐ昼食というころ、編隊を組んだグラマンが飛ぶ爆音と「ダダダダッ」という銃声があたりに響いた。

 「空襲だ!」と声を掛け合う間もなく、私たちは散り散りに逃げ出した。防空壕(ごう)も、身を潜めるような建物もない。無我夢中で走り、目についた松の陰に隠れた。途中、旋回するグラマンのパイロットの顔が見えた気がした。表情は分からなかったが、ただただ恐ろしかった。

 松の幹に命を預けながら、弾丸が近くの空気を切る「ヒュン」という音が聞こえた。自分の背中から心臓に向け「プスッ」と貫通するイメージに頭を支配され、恐ろしくてまぶたが開かない。恐怖だけが増幅し、何も考えられなかった。

 30分ほどしてグラマンは去った。級友たちは皆無事だったが、一緒に仕事をしていた少年工が一人、撃たれて亡くなった。私と同じ17歳くらい。「自分もこうなっていたかもしれない」。先ほどまで近くにいた人に訪れた突然の死を目の当たりにし、「これが戦争だ」と、むごい現実を突きつけられたようだった。

 枕崎にはその後も数回空襲があり、そのたびに「次は自分かも」と思った。級友が誰も犠牲にならなかったのは奇跡だ。

 終戦まであとひと月というころ、実家のある知覧に帰省した。特攻基地の周辺には、空襲に備えて特攻機を隠す場所が数カ所造られていた。基地周辺を歩いていたとき、偶然にも、兵隊さんが隠し場所から特攻機を基地内に運び込む場面に遭遇した。

 おそらく数時間後には特攻へ飛び立つであろう兵隊さん。何人かの女性が駆け寄り、お守りを手渡した。どこかもの悲しい雰囲気。私は少し離れた場所にいたが、その場から動けず、目をそらすことができなかった。自然と涙があふれた。

 「来年には自分にも赤紙がくるだろう」。飛行機乗りではないので特攻するわけではなかったが、「きっとあんな風に死に向かうんだろう」と、ある種諦めにも似た、何ともいえない心境だった。

 戦争が終わったと聞いたときは、正直ほっとした。戦争に敗れ、敵国に支配されるのは気分よくなかったが、命の危機から解放されたうれしさが勝っていたように思う。だが、悲惨な戦争を否定したい気持ちと、それを進めてきた国への思いは、単純には割り切れない。

 戦後、連合国軍による日本の武装解除で、知覧の基地にあった軍用機の処分が行われ、私はそれを手伝わされた。日の丸の描かれた機体にガソリンをまき、火を放つ。自国の国旗をおとしめることに、激しい悔しさを覚えた。けれど「じゃあ日本が勝てばよかったのか」と考えると、そうではない。答えは出せなかった。

 今も答えにたどり着けていないが、これだけは言える。「戦争は悲しみしか生まない」。もう二度と、繰り返してほしくない。

(2012年8月8日付紙面掲載)

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