〈硫黄島 激戦前夜〉鹿児島弁の歩兵第145連隊兵士たち 「帽子に丸に十文字の印、はつらつとしてたくましかった」

2020/12/10 10:30
鹿児島県護国神社に立つ硫黄島の碑。奥には歩兵第145連隊の碑が並ぶ=11月29日、鹿児島市
鹿児島県護国神社に立つ硫黄島の碑。奥には歩兵第145連隊の碑が並ぶ=11月29日、鹿児島市
〈元学徒兵の回顧録②〉

 1944(昭和19)年11月29日、西進次郎さん(97)=鹿児島市宇宿3丁目=は硫黄島に着任した-。

 着任後、われわれ陸軍飛行第23戦隊の戦闘機「隼(はやぶさ)」12機が元山飛行場に到着した。ずらり整列する姿見たさに、たちまちほかの部隊の陸軍兵50人ほどが集まってきた。

 皆が鹿児島弁で話していることに驚いた。鹿児島の「歩兵第145連隊」の兵士たちだった。同郷であることを喜び合った。23戦隊に鹿児島県出身者はいなかったので、久しぶりに方言で談笑できてうれしかった。

 彼らは「自分たちは鹿児島だ。よその部隊とは違う」と自信に満ち、プライドを持っていた。サイパンに行く予定だったが、陥落したため硫黄島に来たという。帽子には、白い布地に丸に十文字を書いた印を付けていた。はつらつとした表情でたくましかった。硫黄島の最高指揮官、栗林忠道中将にも期待されていたと聞く。

 飛行機について詳しくない彼らは、隼を頼もしそうに眺めたり触れたりしていた。その中の1人が「航空隊が来てくれたので、もうこの島は大丈夫だとみんなが言ってる」と、喜んで話すのを聞いて暗い気持ちになった。既に隼は旧式で、敵のB29爆撃機には太刀打ちできないことを知っていたからだ。

 1932年ロサンゼルスオリンピック馬術の金メダリスト「バロン西」こと、西竹一戦車連隊長が島にいることを知った時も驚きだった。あの頃、日本中で彼を知らない人はいなかった。

 隼12機は到着の翌日から空襲警報と同時に迎撃に向かう態勢を整えた。早朝から暖機運転をして機体性能に異常がないか確認し、燃料を満載して備えた。敵機編隊が100キロ先に接近していることをレーダーがとらえると、直ちに離陸していくのを見送った。

 5千メートル上空での空中戦。悲しいかな、しょせんはスズメとタカの戦いだった。隼と同時に海軍のゼロ戦も発進するが、戦果はなかった。撃ち落とされたり、帰還しなかったり、故障で引き返してきたり。多くのパイロットが命を落とし、大けがを負った。整備兵の私たちは壕(ごう)の中で空襲が終わるのを待つほかなかった。

 「水の一滴は血の一滴」と言われるように、島ではいつものどが渇いていた。飲み水は煮沸した雨水だけで、毎日炊事当番が入れてくる水筒1本のみ。島で過ごした40日間、一度も風呂に入らなかった。後半はシラミがわいて、みんな壕の中でつぶしていた。

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