経営する美容室で戦時中の思い出を話す山内トヨ子さん=霧島市隼人
■山内 トヨ子さん(88)霧島市隼人町姫城
生まれ育った姫城で、美容室を開業して60年余りになる。
小学4年生の時、太平洋戦争が始まった。教室は海軍の兵隊さんに使われ、私たちは農家へ奉仕作業に出向く毎日で、勉強どころじゃなくなった。
1943年、隼人町松永に霧島海軍病院(現霧島市立医師会医療センター)ができた。歩ける患者は日赤の看護婦に連れられ、2列に並んで、家の近くの温泉まで入りにきた。凜(りん)とした白衣姿に、「看護婦さんになりたいなあ」と憧れたものだ。
海軍病院に向かう道路は狭く、拡幅工事のために朝鮮人労働者がやってきた。バラック小屋のようなところに住んでいた。今のように大型機械などない。全て手作業で山を崩し、土をトロッコに盛り、松永まで運ぶ繰り返し。たまに「後ろから加勢して」と頼まれ、子どもながらによいしょよいしょと押していくと、帰り道は空のトロッコに乗せてくれて楽しかった。
ある日、家にいると地震のようなドドーンという大きな音がした。飛び出すと、土を採取していた山が崩れ、労働者の1人が生き埋めになっていた。仲間が「アイゴー、アイゴー」と泣きながら助け出したが、それも手で掘るしかなく、結局亡くなってしまった。その出来事があってから、胸が痛んで、もう彼らに近づかなくなってしまった。
当時、日当山には旅館や遊郭があった。そのあたりのにぎわいが家にいても聞こえてくる夜があった。すると、母が「またどんちゃん騒ぎがあっど。明日は特攻隊がたつのかねえ」と言う。若い兵隊さんのこと。この世の最後と覚悟してのことだったのか。翌朝には決まって3機編隊の飛行機が、海軍航空隊の第一国分基地から飛び立った。
母は早起きして飛行機を仰ぎ、手を合わせ、私たち子どもにも促した。「ぐらしこっじゃっどん(かわいそうだけど)、お国のために行ってくれる。拝まんか」。飛行機は霧島神宮の上をぐるりと回ってお参りしてから南方へ行く、と聞かされていた。
45年8月のある夜。海軍病院で事務をしていた近所の夫婦が「日本は負けたー、負けたー」とぐしゃぐしゃに泣きながら周辺を歩き回った。翌日、玉音放送が流れた。あの夫婦は事前に敗戦を察知し、身の置き所がなかったのだろうか。
学校に行くと、相撲場で兵隊さんが刀を手に暴れていた。とても怖かった。
終戦後は大阪の美容室で修業し、免許を取って6年ほど後に帰ってきた。日当山の美容室で見習いとして働かせてもらった時期はまだ遊郭もあり、夕方になると頭をきれいにする女性たちが来た。美容師の先生との会話が耳に入る。私のような若い娘には聞きづらい話もたくさんあった。
その後、独立。そろそろ引退かとも思うが、昔からのお得意さんたちが顔を出してくれるので、なかなか踏ん切りがつかない。戦争を体験し、ここまで一世(ひとよ)を生きた。「きばらんこて」と言ってもらえる限りは店に立つのかも。