太平洋戦争中、朝鮮半島の神社で結婚式を挙げた荒木政雄さん(左から3人目)と妻のエミ子さん(中央)=1944年11月
■荒木政雄さん(99)西之表市西町
1942(昭和17)年8月8日、夜襲を終えた駆逐艦「夕凪」は必死に逃げた。古い船だったので全速力でも遅い。いつやられるかとひやひやし、頭は真っ白。「もっと速く走れ」と思った。
朝日が昇る頃、ショートランド島に着いた。なぜ海軍は輸送船団を見逃したのか-。第1次ソロモン海戦を巡り指摘されるが、味方の艦艇に余力がなかったのだろう。
報道班員として旗艦「鳥海」に乗っていた作家の丹羽文雄氏は著書「海戦」で、この夜襲を「両国の花火大会をもっと大仕掛けにしたようだと眺めた。赤い火、青い火、白い火が無限に、無拘束にとび交わした」と振り返っている。米艦の機銃は多色だったからだ。夕凪が続く(第2、3次)海戦にも本格参戦していたら命はなかったかもしれない。第2次以降は大敗だった。
年末、トラック島に停泊中、戦艦「大和」に出合った。初めて見た時、島の一部が動いていると勘違いした。その大きさに驚いた。
大和の前甲板で慰問の演芸が開かれることになり、夕凪の乗組員も見学を許された。上甲板を見て回り、板張りの美しさに見とれた。他の艦艇と違って甲板上に障害物が少なく、優に100メートルは駆け抜けられただろう。こんなにかっこいい戦艦が戦わずに沈んでいるなんてもったいない。
大和とともに沈んだ軽巡洋艦「矢矧」に乗艦していた大分県出身の戦友に話を聞いたことがある。沈む船に巻き込まれないよう必死に泳いで逃げた海中に、大和の爆発による鉄くずが雨あられのように降り、多くの兵士が犠牲となったそうだ。「お母さーん」という叫び声があちこちから聞こえたという。
43年5月に夕凪を降り、機雷学校高等科を経て朝鮮半島南部の鎮海で機雷術の教員となった。目隠しをしても信管の取り扱いができた。正直、前線から離れてほっとした。
同郷の妻エミ子(2006年死去)との結婚も決まり、現地の神社で結婚式を挙げた。長女が産まれたのは45年8月5日。すぐに終戦を迎えた。赤子だけ現地の里親にしばらく預けるべきかと悩んでいたら、妻が「絶対に連れて帰る」と言ってきかなかった。
先に引き揚げる妻子のため、仲良くしていた地元のおばあさんがリヤカーをくれたおかげで港まで連れて行けた。戦後お礼を言いたかったが、かなわなかった。途中、船が関門海峡で音響機雷を起爆させて沈みかかったが、2人は漁船に救われ無事だった。
戦争は勝っても負けてもいいことはない。絶対にしてはいけない。戦争を回避するには話し合いしかない。当事国同士で解決できなければ、第3国に頼る。国防があってこそ国があるが、絶対に武器をちらつかせて脅しをかけてはならない。