ブーゲンビル島で拾った銃弾を手にする下津春美さん=鹿児島市東開町
「墓島(ぼとう)」と呼ばれたブーゲンビル島のジャングルには、旧日本兵のヘルメットや水筒、銃弾がさびて散乱していた。
下津春美さん(82)=鹿児島市東開町=は2017年10月、鹿児島の歩兵第45連隊が大敗した島西部タロキナの塹壕(ざんごう)跡を訪ねた。拾った飯ごうで即席の線香立てを作り、手を合わせた。
父松一さんは1944(昭和19)年3月24日、全身に砲弾の破片を受け戦死したとされる。33歳だった。遺骨は戻らず、墓には爪と髪が納まる。下津さんに父親の記憶はない。
2007年以降、南方地域での遺骨収集や調査、慰霊に計7回参加。掘り起こされた遺骨を手に取り、ブラシで一つ一つの土や汚れを落とす「洗骨」を繰り返した。「なぜ、こんな遠くまで来て戦争をしたのか」「炎熱の暑さの中、食料も弾薬も薬もなく、どれほど過酷だったろう」。涙があふれた。
■罪滅ぼし
年々、戦友らが少なくなり、遺骨収集を引き継いできたのが戦没者の遺児たちだ。野瀬純弘さん(77)=いちき串木野市金山下=は40年前から、日米合わせて3万人近い将兵が命を落とした硫黄島(東京都)に30回以上通う。父長次郎さんは歩兵第145連隊の衛生兵。1945年3月に29歳で銃弾に倒れた。
収集を始めたきっかけは、ある生還兵との出会いだった。「生きて帰った俺が憎いだろう。気の済むまで殴れ」。慰霊祭であいさつを交わすと、帽子を脱いだ頭を向けられた。
当初は自費だった収集活動に有休をためて通い、多くの生還者から戦場の話を聞いた。印象に残るのは、米軍の火炎放射器が一番怖かったとの証言。焼かれた兵士たちは即死できずに「痛い、痛い」と苦しみながら焦げていったという。
米軍に見つからないよう夜間しか出歩けなかった当時を思い出すため、深夜の壕(ごう)探しに付き合ったことも。「生還した多くの方々は罪滅ぼしとして遺骨を探していたのだろう」とおもんぱかる。
■狂った人生
「火炎放射器で焼かれて黒くなった頭蓋骨」「防毒マスクをつけた英霊」「地熱75度。熱気の出る土砂から7柱見つかる」-。
遺骨収集時の撮影を許された時代に撮りためた写真は、詳細な説明書きを添えてファイルに保存している。「悲惨なことがあった。後世にも伝えていかないといけない」との思いからだ。
戦後、中学2年の時に母親も病死し、生活が困窮。ろくに学校にも通えなかった。「何が何でも戦争をしてはならない。多くの人の人生が狂った」
硫黄島の自衛隊施設では、米軍が空母艦載機陸上離着陸訓練(FCLP)を暫定的に実施している。その移転候補先に西之表市馬毛島が挙がる。米軍訓練がなくなれば、遺骨収集が進むかもしれないと思う半面、気持ちは複雑だ。「軍事施設が真っ先に敵に攻撃される。本当はない方がいい」と漏らした。