収集現場の様子を説明する桑原茂樹さん=枕崎市住吉町
2月、太平洋戦争末期の激戦地・硫黄島(東京都)で遺骨収集を続ける遺族たちが沸き立った。11年前に見つかった遺骨が、いちき串木野市出身の吉尾均さん(34歳で戦死)とDNA鑑定で特定された。亡き父の遺骨を求めて収集を続けてきた長男修一郎さんは昨秋に77歳で亡くなり、再会はかなわなかった。
桑原茂樹さん(76)=枕崎市住吉町=は、歩兵第145連隊の中隊長で28歳の時に戦死した父を持つ。修一郎さんと同じ派遣団に参加し「まさか一致することがあるなんて思わなかった」と驚く。
桑原さんが初めて慰霊で島を訪れたのは12年前。日本人将兵約2万2000人が死亡し、今も1万人以上の遺骨が眠る島に足を踏み入れることに抵抗があった。だが高温の壕内に積み重なる遺骨を目にし「このまま放置できない。1人でも多く本土に連れて帰りたい」と思うようになった。
■米国との差
厚労省は2003年度から、戦没者遺骨の身元特定のためDNA鑑定を始めた。当初、遺骨とともに見つかった遺品などで遺族を推定できる場合に限り実施したが、遺族の高齢化を踏まえて間口を広げることに。17年度から沖縄県、20年度からは硫黄島とギルバート諸島タラワ環礁について手掛かりがなくても鑑定を公募した。
20年度までに身元が判明したのは1200件。今年10月からは、地域を限定せずに募集を始める。
硫黄島では米兵も約7000人亡くなった。厚労省によると、見つかっていないのはわずか95人にとどまる。米国には軍の専門機関「戦争捕虜・戦中行方不明者捜索統合司令部」(DPAA)があり、早くからDNA鑑定を導入し戦死者の身元特定にも力を入れてきた。
27歳で戦死した父の遺骨を求めて島に通う弓削光知さん(78)=垂水市新城=は「お国柄なのか、情けない。ばかな戦争で苦労した兵隊さんたちを大事にしてほしい」と憤る。
戦後、母親が再婚したこともあり、父のゆかりの品は写真2枚のみ。2度抱っこされたと聞くが、記憶はない。「骨つぼに砂と茶わんのかけらだけではやり切れない」。定年後から始めた島通いは19回に上る。
■責任意識の欠落
遺骨収集に詳しい帝京大学の浜井和史准教授(日本現代史)は「日本政府には戦没者遺骨を徹底捜索し、身元を特定して遺族の元に返すという責任意識と義務感が欠落してきた」と指摘。背景には、戦況が悪化した戦中から戦後初期にかけ、遺骨代わりに「空の遺骨箱」を遺族に届けることで処理済みとした経緯があるという。
こうした日本政府の姿勢が、フィリピンや旧ソ連などでの収集活動で、日本人ではない遺骨を持ち帰る失態にもつながった。「朝鮮半島や台湾から戦地に送られ、命を落とした軍人軍属らも“日本人”として収容された可能性も否定できない」と浜井准教授。身元特定の広がりを通じ、改めて目を向けることが重要だと訴える。