監視哨を通して、いろいろな歴史を目撃した尾辻トシヱさん
■尾辻トシヱさん(86)南さつま市坊津町秋目
一九四四(昭和十九)年、坊津町秋目(現南さつま市)に女子だけの監視哨(かんししょう)が設けられ、私もその一員となった。兵隊に取られ男性がいなくなったためで、高台に造ったやぐらから米軍の航空機を見分け、階下の詰め所から軍に電話で連絡する役目だった。
七人一組の二十四時間交代制で、秋目から二組、隣の今岳集落から二組で編成された。年齢は三十歳代から下は十五歳までいた。米軍機を種類ごとに描いた識別用の表を渡されたが、みんな何しろ見るのは初めて。それだけではわからないので、岩川(曽於市)や福岡に研修に行った。
それでも最初の勤務だった四五年一月三日は、グラマンが飛んできたのに仲間同士顔を見合わせるだけ。通り過ぎて「あれがグラマンだ」と気付くような感じだった。
少し慣れた一月二十五日。沖秋目島の向こうを航行する輸送船が望遠鏡越しに見えた。甲板に上がる船員の姿が見え、「昼ご飯がすんだもんだ」とながめていると突然、船の前半分が「どすん」という感じで沈み、あっという間に後ろ半分も沈んでしまった。
米国の潜水艦の魚雷攻撃を受けた帝国陸軍輸送船「馬来丸(マレー丸)」だった。すぐに連絡したが、他の監視哨からの連絡はない様子で「女子の報告だけでは信用できない」と承知してもらえなかった。久志から消防団が出て救助したが、時間がかかり、かなりの人が凍死したと聞いた。
私たちは、夜になっても島影が潜水艦に見え、みんなでがたがたと震えた。おまわりさんたちも泊まってくれたが、怖くてたまらなかった。
四月七日は、南の空が真っ赤になっているのが見えた。そのときは「何かの戦闘をしているのだろう」とだけ思っていたが、後で戦艦大和がその日に沈んだと聞いた。もしかしたらあれは大和だったのではと思ったことだった。
監視哨は樹木でカムフラージュされて攻撃される心配はなかったが、本土の空襲が激しくなり、飛行機もどんどん飛ぶようになった。鹿児島大空襲に向かう飛行機など、やぐらからさまざまな様子を見てきた。
だが、終戦の翌日軍が来て書類をすべて燃やし、「軍の秘密だからしゃべるな」といわれ解散した。戦争に勝っていれば、表彰もされたのだろうが、負けて存在すら残らなかった。
(2006年5月26日付紙面掲載)