米進駐軍が上陸して自宅近くを通る様子を捉えた写真を見る立元良三さん=鹿屋市高須町
■立元良三さん(92)鹿児島県鹿屋市高須町
日中戦争が始まる前年の1936(昭和11)年、高須尋常高等小学校に入った。日露戦争の勝利や、32年に日中が衝突した上海事変で爆弾を抱えて敵地に突進したとされる「肉弾三勇士」を美談として学んだ。「日本は神の国。絶対に負けない」と繰り返し頭にたたき込まれた。
鹿屋中学校では軍事教練が必修に。1年時から銃の分解方法や持ち方を学んだ。高隈登山の遠足は訓練の一環で、おしゃべりは禁止。軍歌を歌った。
1年の夏休みには、鹿屋の市街地と高須を結ぶ道路の舗装工事にかり出され、40日中30日働いた。給金は1日1円20銭。現場は朝鮮人ばかりで、給料は私たちより20銭安かった。
同級生の多くは飛行機乗りに憧れていた。44年、3年生になると、男子生徒全員が海軍飛行予科練習生の試験を受けさせられた。
市外も含め数百人の生徒が鹿屋国民学校の講堂に集められた。全員裸になり性感染症の検査を受けた。陽性と分かると素手で何度もたたかれた。
この頃、もはや予科練のための飛行機はなかった。合格した先輩はスコップを持って土木作業をしており、「土科練」と呼ばれた。
44年の夏、法定伝染病のパラチフスにかかった。人里離れた林の中にある伝染病患者を隔離する「避病舎」へ連れて行かれた。バラック小屋で医者はいない。薬も布団もなく、患者数十人は放置されていた。町民は「生きて帰れない場所」と口々に言っていたが、母が重湯を作って看病してくれ、1カ月で回復した。
本当に死ぬ思いをしたのは45年からだった。3月18日、まだ空が暗い早朝、米グラマン機による空襲が始まった。米機は高須上空も通った。近くの7歳前後の子が機銃掃射で足を撃たれ、亡くなった。
翌日には高須の42カ所に250キロ爆弾が落とされた。自宅の防空壕でやり過ごしたが、爆弾が落ちるたびに地面が大きく揺れ、生き埋めになると思った。家では過ごせないと考え、約1カ月間、小学校近くの共同防空壕で近隣の20~30の家族と共に避難生活を送った。すし詰め状態の中、座ったまま寝た。爆弾で足をけがしてうめき続けている人がいて、手当てを受けられないまま事切れてしまった。
この頃、学校の授業は完全に無くなり、学徒動員が始まった。同級生約150人のうち50人ほどは兵隊になり、私は海軍鹿屋基地横で機体整備を担う航空廠(しょう)に配属された。「解体班」として、あちこちに落ちていたゼロ戦の部品を集めて工場に運んだ。敵艦に突っ込む特攻機に使うと聞いた。特攻機が足らず、その後も県内外の4カ所の工場に派遣されて、解体作業をした。
敗戦から約3週間後の9月4日、自宅近くの金浜海岸周辺に米進駐軍の約2500人が上陸した。「鬼畜米英。日本の男は殺され、女は犯される」との話が広まり、大根占(現錦江町)の親戚宅に逃げた。だが問題は起きず、2日後、自宅に戻った。
鹿屋中を卒業し、教員養成所を経て教師に。二度と戦争をしてはいけないと思い、退職後に語り部活動を始めた。2001年には進駐軍上陸の歴史を語り継ぐ石碑を地域住民と地元に建てた。埋もれた歴史はまだあり、次世代に引き継ぎたい。
(2022年9月11日付紙面掲載)