空襲が激しくなると、衛生兵は防空壕で働いた。昼のように明るい立派な要塞。雑音も入らず、ここにいる間は戦争を忘れた〈証言 語り継ぐ戦争〉

2022/12/13 11:00
垂水海軍航空隊で衛生兵を務めた山野秀則さん=鹿児島市紫原7丁目
垂水海軍航空隊で衛生兵を務めた山野秀則さん=鹿児島市紫原7丁目
■山野 秀則さん(100)鹿児島市紫原7丁目

 鹿児島県南大隅町佐多馬籠の外之浦地区で育ち、1942(昭和17)年夏の徴兵検査に甲種合格した。1年後、衛生兵として長崎県佐世保市に行き、一般兵と訓練したり、海軍病院で働いたりした。

 希望の配属先を尋ねられたが弱々しい発言ができる時代ではない。ラバウル、上海陸戦隊、鹿児島航空隊と戦況の激しい順に伝えると、垂水海軍航空隊(44年2月開隊)に決まった。

 着任は開隊の2カ月後だった。鹿屋航空隊の魚雷整備場とは知らず、飛行機も滑走路もなく最初は驚いた。主な要員は予科練の若い人たちで、医務科は約30人。当初は病院も完成しておらず、木造2階建て兵舎の一部を間借りしていた。

 内科と外科、調剤薬局で働いた。他に眼科もあった。仕事は整備兵の予防注射や身体検査。内科では医者の言葉の記録係で「診(しん)するに、体格、栄養良好」などと書き留めていた。薬局はしゃべる暇もないほど忙しく、医師の指示に従って調剤したり、患者に飲み方を説明したりした。

 空襲が激しくなると、山の中の防空壕(ごう)に移った。天井はトラックが出入りできる高さで、奥行きは100メートルほどだろうか。照明があり、中は昼のように明るい立派な要塞(ようさい)だった。外界の雑音が入らないので、ここにいる間は戦争ということも忘れてしまうほど。外出はトイレだけだった。

 腹が減るということはなかった。1人2合ほどの酒も週に2、3回は配給された。防空壕にあったロッカーに残しておき、毎日晩酌をしていた。

 一番大変だったのは壕の中の作業員たちにシラミがわいたこと。毛布や衣類を数日かけて煮沸消毒し、土手の畑に広げて乾燥させた。柊原の山手の方で伝染病がはやり、何日かかけて消毒したこともあった。

 海潟には発射試験場があった。救急箱一つとにぎり飯二つを持って、私も毎回試験に参加した。負傷者が出ない限り何も仕事はないので、隣の事務所で眺めていることが多かった。

 敗戦は、鹿屋から逃げてきた兵隊に聞いた。下士官が荷物をまとめて帰り出したので、私もその日の夕方には故郷へ向かった。教科書や海軍で撮った写真は壕近くで焼却した。途中で米軍に捕まっても証拠が残らないようにと考えたからだ。

 4、5人の仲間で柊原の山の中を抜け、荒平(鹿屋市)まで歩いた。声をかけた家に一晩泊めてもらい、隊から持ち出した新しい靴と病院の薬局にあったウオッカをお礼に差し出した。佐多の自宅まで歩き続け、帰り着いたのはおそらく8月17日夕だった。

 食糧難はむしろ戦後の方が大変だった。種子島行きの船に便乗し、カライモやデンプンを買い込んだことも。佐多岬の岩場で切り出したソテツも食べた。削ったり、日に干したりして団子にしたが、おいしいものではなかった。

 軍人という気概は終戦まで変わらず、いつでも死ねるという覚悟を持っていた。しかし、いざ迎えると、何か「(心が)ぽっかりした」という気分だった。佐世保まで送ってくれた叔父が鹿児島大空襲で亡くなったことも悲しい記憶だ。

 先日、垂水海軍航空隊の壕の保存を求める新聞記事を読み、当時の記憶がどんどん戻ってきた。知る人はほとんど残っていない。そう思うと、語ることが100年生きた私の務めだと思っている。

(2022年12月11日付紙面掲載)

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