田口一郎さん
(2011年6月20日付連載「鹿児島大空襲66年 6・17あの日の記憶」より)
■田口一郎さん(79)鹿児島市荒田2丁目
真夜中の空襲警報で、田口一郎さん(79)=鹿児島市荒田2丁目=は、同市堀江町の自宅を家族7人と飛び出した。頭上には無数のB29が見えていた。突然、「ザーザー」と夕立のような雨が降ってきた。べとべとしていて、臭いもきつい。「油だ、まずい」と思った瞬間、焼夷(しょうい)弾が「ヒューヒュー」と音を立て、次々に落ちてきた。
1945(昭和20)年6月17日夜。田口さんは家族全員で庭の防空壕(ごう)に逃げ込んだ。その目の前で、焼夷弾が自宅を直撃した。「海へ行くぞ」と父が叫び、300メートルほど先の港を目指し駆け出した。だが、油がまかれたからか、道路は猛烈な炎に包まれ、先に進めない。「体じゅうが油まみれで、いつ火が付くのかと戦々恐々としていた」
近くにあった町内会の防空壕に向かった。「立派な壕でね。扉は鉄製で、炊事場まであった」。なんとかたどり着いたが、中はすでに大勢の人でいっぱい。「もう入れない」と断られた。
辺りは嵐のような熱風がすさまじく、暑くてたまらない。消防団長だった父が「近くの空き地に行くぞ」と言った。そこには作りかけの壕があり、大きな穴に雨水が膝上までたまっていた。
穴に飛び込んであおむけになり、水面から顔だけ出した。生後6カ月の妹も、母の胸の上で水に漬かった。「海側から吹く猛烈な風にあおられ、真っ赤な炎が渦を巻いていた」。そこから見た風景は今も忘れられない。「死にたくない。どうか助かりますように」とひたすら祈り続けた。
しばらくすると攻撃はやんだが、B29は上空を何度も旋回した。「攻撃し残した場所を探していたんだろう。しつこい連中だった」。3時間ほどそのままの姿勢で過ごし、敵機が去ったのを確認して穴から出た。
家族全員助かったが、父は両肩、母は胸、2人の祖母は頭が焼けただれ、「痛い痛い」「どうにかしてくれ」と苦しんでいた。田口さんは弟と2人、焼け残ったリヤカーに家族を乗せ、伊敷の病院に向かった。「市電の軌道に沿って無我夢中で歩いた。道中は焼け野原だったんだろうが、よく覚えていない」
病院は多くのけが人でごった返し、まるで野戦病院のようだった。早期の処置が功を奏し、ひどかった家族の傷はその後、気にならない程度まで回復した。
後から、町内会の壕に残った大半が窒息死したと伝え聞いた。「ぞっとした。あのときは死を覚悟したが、入れなくて運が良かったとは」。生と死は紙一重だった。
「油をまいた後に焼夷弾を落とす米軍のやり方は、あまりに残酷。手段を選ばず、無抵抗の一般市民まで本気で殺し尽くそうとしていた」。無差別攻撃を生き抜いた田口さんの話に、戦争に潜む狂気をあらためて感じた。