中山秀雄さん=鹿児島市武岡1丁目
(2011年6月21日付連載「鹿児島大空襲66年 6・17あの日の記憶」より)
■中山秀雄さん(81)鹿児島市武岡1丁目
3月11日に発生した東日本大震災では、いまだ7千人以上が行方不明のままだ。被災地では現在も懸命な捜索活動が行われている。
「捜索を断念しなければならない日がいつか来るだろう。でも、残された者はいつまでも諦めきれない」。1945(昭和20)年の鹿児島大空襲を家族全員で生き延びながら、その後の空襲で妹・京子さんが行方知れずになった中山秀雄さん(81)=鹿児島市武岡1丁目=は、震災の報道を見てつぶやいた。
秀雄さんは4人きょうだいの年長で当時15歳。「京やん」と呼ばれていた2歳下の京子さんは「私よりもしっかり者で、家事もこなし、弟や妹の面倒もよく見ていた」。一緒にままごとをした思い出もある。両親と祖母を加えた7人家族では「いつも中心にいて、笑顔を絶やさなかった」。
6月17日の夜、一家は同市高麗町の自宅にいた。火の手が迫り、秀雄さんと父親を残した5人は旧制鹿児島二中(現・甲南高校)へ逃げた。「そのときも京やんが先頭にいた気がする」。秀雄さんらも家財を庭の防空壕(ごう)に入れ、後を追った。
二中に着いた秀雄さんは京子さんらを捜したが見つけられず、「もしかして、と思わずにはいられなかった」。翌朝、半ば諦めていたが、校内を歩く5人と再会、涙を流し喜んだ。近くの川に避難していたという。
「近所の一家が防空壕に逃げ込み、全員亡くなったという話を聞いた。うちもそうなっていたかもしれない。家族みんなが無事だったのは奇跡だった」
7月27日の昼間、乗降客で混雑していた鹿児島駅を目標に、同市で6回目の空襲があった。京子さんはそのとき、母親と駅構内にいた。2人とも吹き飛ばされたが、母親は一命を取り留めた。
秀雄さんと父親は、戻ってこない京子さんを数日かけて捜し回った。「せっかく大空襲を生き延びたのに…。遺体を見つけてやることさえもできなかった」。またいつ空襲があるか分からない状況下で葬式を挙げられず、「心の整理がつかなかった」。
終戦後の10月、京子さんの死亡認定を受けた。悲しみに暮れる家族の中で、京子さんの話は次第にタブーになっていく。「話したところで、つらくなるだけ」。戸籍上の命日が近づくたびに、家は重苦しい雰囲気に包まれた。
秀雄さんはそれから40年ほどたって、空襲により鹿児島駅周辺で亡くなった身元不明者の遺骨が納められている墓地が同市坂元町にあると知り、墓参するようになった。毎年、暑かったあの日を思い出し、冷えた飲み物を供える。
「京やんがどこかで元気にしていてくれれば、と今でも考える。この気持ちはきっと、これからも変わらないと思う」