福島ハナエさん
(2011年6月22日付連載「鹿児島大空襲66年 6・17あの日の記憶」より)
■福島ハナエさん(89)鹿児島市荒田1丁目
「海軍の若い人たちが居合わせてなかったら、この家も焼夷(しょうい)弾の炎に焼かれていた」。福島ハナエさん(89)=鹿児島市荒田1丁目=は築72年を経た自宅で、鹿児島大空襲を振り返りつつ、かつての恩人に手を合わせた。
福島さん方は農家で家が大きかった。そのため、軍の依頼で、8歳上の夫・義徳さんが満州に出征する前の1943(昭和18)年ごろから、土曜日と日曜日に、離れの部屋を鹿児島航空基地の若手航空兵に提供していた。
18、19歳の航空兵は平日は軍の横穴壕(ごう)に寝泊まりしていた。「でも皆、家庭の雰囲気が恋しかったんだと思う。『ゆっくりできる』『おばさんのみそ汁がおいしい』と、ここに来るのを楽しみにしていた。荒田八幡宮に『武運長久』を祈りなさいと勧めると、月曜の早朝に出勤前のお参りを欠かさなかった。素直ないい子たちだった」。だが、兵士の名前はだれ一人知らない。聞いてはいけなかった。
45年6月17日深夜、隣り合う叔母宅に焼夷弾が直撃し、炎が迫った。「だけど運が良かった」。その日は日曜日で、兵士14人が泊まっていた。彼らは外に飛び出し、庭にあった大きな池や井戸から水をくみ上げてはバケツリレーで掛け、延焼を防いでくれた。
「私も、義母や子ども3人を庭の防空壕に入れた後、必死で水を掛けた」。周囲で全焼を免れたのは、他には家1軒と荒田八幡宮だけだった。
周囲の火が消えて家に入ると、長さが50センチ、断面が六角形の不発弾2発が、仏壇の供え物を乗せる台の上にあった。「発火していたら、おしまいだった。ぞっとした」
兵士たちはしばらくして、「おばさん、長い間ありがとう」「近く基地に来てもらうことになるよ」と言い残し、去っていった。
7月上旬、ハナエさんは軍の招きを受け、生後8カ月の娘をおんぶして鹿児島航空基地に出向いた。知った顔を乗せた飛行機数十機が次々に飛び立った。出撃だったのか、他の基地に移動したのかは分からない。でも、なじみの顔を見ることはそれ以降なかった。
大空襲の後、福島さん宅には焼け出された親せきや知人が身を寄せ、17人が一つ屋根の下で暮らした。ハナエさんはカボチャやサツマイモを育て、食糧難をしのいだ。
「物資不足で、終戦後もしばらくは、家を建て直す木材やくぎさえなかった。とにかく生きていくことに必死。あのころの大変さを考えれば、今は本当にいい時代だと思う」としみじみ語る。
51年9月、義徳さんが長いシベリア抑留を終えて帰国した。「こげん、ずるっと燃えたとや」。戦災の傷が癒えない鹿児島市の街を見て驚いた夫の声が、ハナエさんの耳に今でも残っている。