久保さんが乱打した思い出の半鐘
(1985年6月16日付連載「鹿児島大空襲 あれから40年」より)
■久保本吉さん(91)鹿児島市上荒田町
「わが者顔の米軍機が腹立たしく、燃えるにまかせる街が情けなくて。カナヅチで、もう思いっ切り鐘をたたき続けた。後で気づいたのだが、ヒビが入っていた」
鹿児島市上荒田町の前県消防協会長、久保本吉さん(91)は玄関に据えた半鐘を見るたび、無念の思いにシワを寄せる。直径35センチ、高さ65センチ。鋭い光沢を放つ半鐘は久保さんにとって貴重な空襲の“形見”だ。
昭和20年6月17日。鹿児島市では5日間降り続いた大雨が上がり、梅雨の中休み。珍しく日差しの下、市民はたまった洗たく物干しに日がな追われた。
午後11時5分。久しぶりに訪れた安息の一日が終わろうとしていた。上荒田消防分団長の久保さんも床につく寸前だった。
「グォーン」。西の空に突然、地鳴りのような爆音。「空襲だっ!」。寝間着のまま反射的に久保さんは外に飛び出した。目指すは近くの望楼。「空襲警報は出ていない。みんなぐっすり寝入っている。早く半鐘を」。3階建てほどの木造はしごを一気に駆け上がった。
頭上には、既に鳥の群れのような敵機の大編隊。間髪を入れず、ザ、ザーッと豪雨のような音とともに、無数の焼夷弾が落ちてきた。眼下の町並みから一斉に火の手が上がり、みるみる間に火災が広がっていく。
「ガン、ガン、ガーン」。カナヅチを振りかざし、狂ったように早鐘を打つ。消防分団員は90人。訓練は十分のはず。だが、すぐさま飛び出してきたのは、軍刀片手の歯科医1人。ほかの団員は猛火に阻まれたのか。わが家の火消しが精いっぱいなのか。
なおも、鐘を乱打する。望楼の周囲も既に火の海に。紅蓮(ぐれん)の炎の中に、崩れ落ちるわが家をかい間見た。1年もたたない新築同然の家。怒りと無念さで、打ち振るう手に一段と力がこもる。「団長、危ない、早く下りろ」。叫び声でわれに返ると、望楼の足元に火が。腹立たしさにカナヅチを投げ捨てる。はしごの途中から飛び降り、火炎を避けるため、近くのイモ畑のうね間に身を伏せた。頭上にはもうもうたる火の粉。頭を上げられず、はいつくばったまま夜を明かした。
翌朝、市内は一望千里の焼け野原。上荒田町内だけで82人の死者が出た。その大半が防空壕(ごう)での犠牲。焼夷弾の経験は初めてで、爆弾攻撃と同じように壕に飛び込んだものの、猛煙が後を追いかけてくる。焼き尽くされそうな恐怖感。たまらず脱出しようにも熱風で扉を開けられず、そのまま焼死、あるいは窒息死した。
久保さんら分団員は遺体処理に追われた。もがき、苦しんだのだろう。壕の出口近くでは4、5人が空に両手を突っ張るように倒れている。壕の奥にも折り重なった数人が。かばい合うような格好で、一家全滅した家族もいた。
連日の雨で壕の中は腰まで水浸し。しかも、熱風でお湯のようにたぎっている。遺体搬出は手間取った。お棺が足らず、大工の分団員に急きょ作らせて、大八車に乗せ、田上の火葬場に運んだ。
この夜、鹿児島市を襲った米軍機は百数十機。投下された焼夷弾は推定13万個といわれる。上町などを除いてほとんどが焼き尽くされ、その炎は10キロ以上離れた下田、吉田あたりで新聞が読めるほどのすさまじさだったという。1万1649戸が焼失、死者2316人、負傷者3500人を数える大空襲だった。
久保さんは望楼の焼け跡からヒビ割れた半鐘を持ち帰り、大事に扱ってきた。30年に幼稚園を開設。子どもたちに半鐘の思い出話をと考えたこともあるが、機会がないまま、昨年から体を壊し、寝たり起きたりの生活。園庭で無邪気にはね回る子どもたちを庭続きの自宅から眺めながら「この子たちを戦火に巻き込んではならない」と念じ、いまは胸の内で静かに警鐘を鳴らしている。