【当時 八幡国民学校5年生】母子6人がくるまる布団に焼夷弾が直撃。妹と弟は黒焦げになって即死。「早く逃げなさい」。火だるまの母は絶叫した

2023/06/09 16:35
直子さん(左)が除幕した慰霊碑を訪れ、思い出を語る順子さん
直子さん(左)が除幕した慰霊碑を訪れ、思い出を語る順子さん
(1985年6月17日付連載「鹿児島大空襲 あれから40年」より)

■西山順子さん(50)鹿児島市明和5丁目

 きょう17日、鹿児島市明和5丁目の主婦、西山順子さん(50)=旧姓・新=も空襲忌を迎えた。火だるまになって焼死した母と弟妹が郡元の墓地に眠っている。「母さんのことは構わないで、早く逃げなさい」。墓前にぬかずく順子さんの耳に、あの夜の母の絶叫が生々しくよみがえる。

 順子さんは当時、八幡国民学校5年生。父は応召、下荒田町の自宅で母の静江さん=当時35歳=と順子さんを頭に5人の子どもたちが留守を守っていた。

 深夜の空襲。「早く逃げないと」。近所の人たちが玄関先からせきたてる。だが、連日の雨で防空壕(ごう)は水浸し。子どもがかわいそうだし、5人連れ出すのも大変。静江さんのとっさの判断で家に残ることにし、親子6人が1枚の布団をかぶって身を寄せ合った。

 その布団を大型焼夷(しょうい)弾が直撃した。床を突き抜け、油脂を含んだ布切れが四方八方へ散る。ポッと炎上する天井、ふすま、柱。たちまち火の海に。7歳の妹と、母が抱いていた2歳の弟は黒焦げになって即死。モンペ姿の母も火だるま。奇跡的に助かった順子さんは必死に水をかける。「いいから、おばさんたちの所に早く逃げなさい」。しかり飛ばすような母の声。消防団員が駆け込んできた。母を引きずり出してもらい、自分はもがいている5歳の弟の救出に火の中へ。順子さんの髪がちりぢりに焼けた。

 その夜は9歳の妹と弟の3人で水につかって防空壕で過ごした。翌朝、母が息を引きとった。近所でも評判の明るく、ひょうきんな母。ふろの行きがけに出征兵士の家に上がり込んでは、にぎやかに踊ってみせた母。戸板の上の変わり果てた姿に順子さんは泣き伏した。その2日後、下半身にやけどを負っていた妹も死んだ。

 2日後、応召先の佐世保から妻子を気づかう父の手紙が焼け跡に届いた。投かんの日付は空襲当日の17日。虫の知らせだったのだろうか。

 順子さんと弟は親せきに引きとられ、父が鹿児島に転属して間もなく終戦。6年後、弟は小学6年で病没。順子さんは弟妹すべてを失った。「弟には空襲で受けたやけどのケロイドが残っていた。あれがもとで病気を併発した」。順子さんは、今も固く信じて疑わない。

 市交通局勤務の夫と結婚、2男1女をもうけた順子さんは夫以外、子どもたちにも断片的な思い出話しかしなかった。11年前の6月、鹿児島空襲30年を前に県民の浄財などで市役所前に「太平洋戦争民間犠牲者慰霊碑」ができ、長女の直子さん=当時、原良小6年=に除幕の依頼がきた。「お母さん、どうして私が」。いぶかる直子さん。順子さんは初めて一部始終を子どもたちに話して聞かせた。途中で何度も絶句した。

 「あまりむごくて。母が話したがらない理由がわかりました。でも、私はこのことを子どもたちへ語り継いでいきたい」。やがて嫁ぎ、母となる直子さんは、心にそう誓う。

 病死した弟が一番かわいそうだった、と順子さんは40年を振り返る。「ケロイドが心の傷にならないようにと、父は弟をつとめて明るく育てました。弟もぐち一つこぼさなかった。でも、成人しても、その明るさを持ち続けられるか、私は不安だった。その意味で、誤解を恐れずに言えば、本当は、弟は死んで幸せだったのかもしれません」

 こみ上げるものを抑えきれず、順子さんは顔を手で覆って、慟哭(どうこく)する。

 「なぜ、私たちがあんな不幸な目にあわなければならなかったのか。いつの時代でも戦争の犠牲者は庶民。心中は今も煮えたぎる思いです。でも、もう何を言っても返ってこない。国も何もしてくれない。せめて、人形一つでいいから、償いの気持ちを表してほしい」

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