「シャー」大雨か?…78年前の晴れた真夜中、焼夷弾が降ってきた。「平穏な暮らし奪うのが戦争」。重なるウクライナの惨状

2023/06/17 17:33
「ウクライナの住民たちがどのような生活をしているかが心配」と話す中精一さん=鹿児島市皷川町
「ウクライナの住民たちがどのような生活をしているかが心配」と話す中精一さん=鹿児島市皷川町
 2316人が亡くなった1945(昭和20)年の鹿児島大空襲から、17日で78年目を迎える。世界では今でも市民が巻き込まれる無差別爆撃が続いており、小学6年生だった元公務員中精一さん(89)=鹿児島市皷川町=は、焼け野原となった市街地とテレビに映るウクライナの被災地が重なって見えるという。「平穏な暮らしや家族を突如奪われ、悲嘆にくれる人たちが今もいると思うと心が痛む」と話している。

 78年前の6月。梅雨の長雨が続いていたが、17日の夜は晴れていた。「シャー」。午後11時すぎ、突然大雨のような音が市街地を覆った。同市戦災復興誌によると、一夜で推定13万個の焼夷(しょうい)弾が投下された。

 当時薬師町に住んでいた中さん。台所のすりガラス越しに低空飛行する米軍機の影を目撃し、自宅庭の防空壕(ごう)に寝間着のまま母と祖母の3人で逃げ込んだ。周囲には民家や田んぼしかなく、「空爆されることはないと思っていたので驚いた」と振り返る。

 約10平方メートルの壕の中はひざ近くまで雨水がたまっていたが、「そのおかげで命拾いした」。焼夷弾の火で木製の戸が燃え始め、必死に雨水をかけて消火した。

 夜明け前に壕を出ると、すでに白みかけていた空の下で、第一鹿児島中学校(現鶴丸高校)の体育館が赤い火柱を上げて燃えているのが見えた。市街地はすでに焼け野原。自宅や貴重品の全ても失った。

 親戚がいる南さつま市に避難するため、倒壊した建物の隙間を通りながら西鹿児島駅(現JR鹿児島中央駅)に向かった。見慣れた町はなくなり、至るところに真っ黒にこげた遺体が転がっていた。「これが本当に人間かと思ったが、自分の命を守るために無心で歩いた」。途中、金属の破片が体に刺さっていたり、顔面にけがを負ったりしていた人も見かけた。

 避難先では、両手を縛られた20代とみられる米兵捕虜が日本兵に引きずられていた。飛行服にはだし姿で、多くの住民に棒や物干しざおでたたかれていた。「鬼畜米兵」と憎しみがわき上がり自分もたたこうとしたが、全身から流れる血を見て「自分と同じ人間なんだ」と踏みとどまった。

 その後、国家公務員となり海外でも勤務した。戦争で父親を亡くした米国人とも交流した。「国が勝っても負けても、市民には悲しみや憎しみが残るのが戦争だ」と話す。

 大学時代には安保闘争にも参加した。現在、防衛装備拡張を進める政府の姿を見て「国民は何となく容認している」と感じる。「結論を出さないのが日本の国民性なのかもしれないが、本当にそれでいいのだろうか」と疑問を抱く中さん。「戦争を避けるためにはどうしたらいいのか、一人一人がもっと真剣に考えていくべきではないか」と話している。

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