「生き抜く。その一念だった」と振り返る荒木信さん=日置市伊集院町飯牟礼
■荒木信(あきら)さん(81)日置市伊集院町飯牟礼
終戦の玉音放送は、朝鮮半島の平壌で聞いた。進駐してきたソ連軍の捕虜となり、興南港で働かされていた一九四五(昭和二十)年十二月、「日本に帰れる」といううわさが流れた。帰国船と信じて乗り込んだ船は四十六年一月三日夜、港に着いた。「寒いから北海道かなあ」と思った。夜が明けて港の様子が分かってきた。シベリアのナホトカだった。
ウラジオストクの内陸部にあるウオロシロフという炭坑地帯の収容所に移され、抑留が始まった。三交代八時間労働での石炭掘り。食事はコウリャン、トウモロコシの雑炊が主食、働きがよかったときだけ黒パンが出た。
収容所では約十五人の班長だった。「少ない食糧は平等に分配しなければ、いさかいが起こる。てんびんで正確に計った」。何かあるたびに「スターリン大元帥万歳」を唱えさせられた。
そのうち落盤事故に巻き込まれ、北朝鮮の病人収容所に戻された。医者もいないし、投薬もない。しかし「絶対に死なない」という気持ちは折れなかった。
「もともと鹿屋航空基地の整備兵で、特攻機を何機も見送るうちに、陸軍特別幹部候補生を志願した。死を覚悟していたはずなのに、抑留生活では不思議と生き抜くんだという思いしかなかった」。薪とりの途中、ヘビやカエルを捕らえて食べた。赤痢対策にセンブリやヨモギを煮た。木炭の粉を下痢止めにした。
四七年三月、佐世保に復員した。「四五年十二月の件があったから最後まで信じられなかった」と振り返る。「帰国したら遺族に伝えたい」と、死亡した仲間の名前などをメモしていたセメントの紙袋は、乗船前に没収された。
なぜか荷物に“民主化運動”推進を目的に収容所で発行された「日本新聞」が入っており、帰国の際チェックされ、伊集院に帰ると駐在所に呼び出された。「共産党の活動を教えろ」という取り調べ。しばらくは就職もままならなかった。
「生き抜く意志を持ち続けられたのは、新しい日本をつくるという敗戦への反骨心だったのか。帰って白い米を腹いっぱい食べたい、の一念だったかもしれない」
炭坑での作業中に掘った穴の長さ、大きさなどを競うように歌い、励まし合った歌がある。
一、シベリア下ろしに
さらされながら
通ったシャフトよ
それたてこの深さ
角の出来さえ界隈一よ
それおいらは日本人だ
二、木枯らし吹く夜は
ペチカのそばで
国の話にそれ花が咲く
角の出来さえ界隈一よ
それおいらは日本人だ
(2006年8月10日付紙面掲載)