大阪大空襲を機に高山へ疎開…移動中の鹿児島湾で伝馬船が転覆した。海は美しく澄み、苦しさも怖さも感じなかった。今も鮮明に覚えている。

2023/08/14 10:00
「たくさんの水兵さんのおかげで九死に一生を得た」と話す森園静子さん=鹿屋市串良町上小原
「たくさんの水兵さんのおかげで九死に一生を得た」と話す森園静子さん=鹿屋市串良町上小原
■森園静子さん(77)鹿屋市串良町上小原

 一九四五(昭和二十)年三月の大阪大空襲を契機に、仕事がある父を残し、家族で暮らしていた大阪を離れて、おばの家族と計七人で母の親せきを頼り、旧高山町(現・肝付町)に疎開することになった。汽車での移動の途中、空襲に遭いながら三日がかりで鹿児島市にたどり着いた。

 鹿児島駅か西鹿児島駅(現・鹿児島中央駅)だったか、駅に降り立つと、そこは一面の焼け野原で海も見えていた。翌朝、垂水と結ぶ船が出港して間もなく、敵機が編隊を組んで上空に現れた。幸い機銃掃射には遭わなかったが、攻撃を受けてはまずいと、桜島で降ろされることになった。

 本船から陸までは伝馬船で移動。幼い妹を背負った母に私と弟、一般客ら計七人を乗せた伝馬船が本船を離れようとしたとき、突然十人くらいの海軍水兵が、どかっと乗り込んできた。あっという間に船はひっくり返り、海に投げ出された。海は美しく澄んでおり、苦しくも怖くもなかったのを鮮明に覚えている。

 本船に乗る際は荷物制限があったらしく、私は脇に貴重品を抱え、もんぺ三枚を重ね着していた。水を吸った重みで、水兵が本船から手を差しのべてくれたものの一度では揚がらず、二度目でようやく本船に乗れた。

 弟は最後まで海面に現れなかった。ひっくり返った伝馬船の下にいたのだ。みんな必死で弟の名前を呼んだ。弟は伝馬船の下から、浮いていた水兵の足をつかみ、けられながらも何とか海面に顔を出してくれた。先に陸に渡っていたおじは、ふんどし一つで今にも飛び込みそうな姿だった。

 高山まではバスで移動した。私はおじのズボンを借り、ずぶぬれになった衣類を詰めた行李(こうり)はバスのフロントに張ってあった金網に乗せてもらった。高山に着いてから、当時は泳ぐこともできたほどきれいだった肝属川で洗った。

 戦後、もう少し戦争が続いていたら、米軍は沖縄に続いて志布志にも上陸する予定だったと聞いて、一番怖い所に疎開したと思う。

 今となっては、一緒に疎開した家族、親せきで生きているのは私と妹、いとこの三人だけ。伝馬船から投げ出された際、桜島のどこに上陸したかは、はっきりとは覚えていないが、垂水フェリーで桜島の前を通るたびに当時を思い出す。

(2006年8月18日付紙面掲載)

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