「病気したおかげでシベリア抑留を免れた」という春成文夫さん
■春成文夫さん(82)南さつま市加世田武田
東京で浪人をしていた一九四四(昭和十九)年一月、徴用の命令が下り、立川市(東京都)の陸軍航空工廠(しょう)の徴用工になった。過酷な労働をこなす私の元へ、今度は八月に「徴兵検査を受けるように」と知らせが入った。検査を受け、十月十五日に熊本の陸軍第六師団の野砲隊に入営。二日後に門司(北九州市)に送られた。
そこには、幼なじみの西秀美君ら加世田の友達を含む九州の六師団から入営したばかりの新兵が集まってきた。行き先は満州。ベテランの部隊は南方戦線に駆り出され、満州が手薄になったので新兵がそこに送られたのだと後で知った。
船で釜山に渡り、汽車に乗せられた。床にわらを敷き、その上にむしろを敷いた貨車だった。満州に近づくと、壁の板のつなぎ目が白く凍ってきたのを覚えている。
最初にハイラル市の西山で挽馬(ばんば)部隊に配属になり、その後、東山の機械化部隊に移った。私はトラックで食糧を運ぶ班で、まず模型のトラックを使って運転を学ぶ訓練を受けた。
軍隊生活は過酷で、しかも洗ったタオルをひと振りすると凍ってしまうような極寒の地。私は体が大きく自信を持っていたが、胸膜炎を起こし、金州の陸軍病院に入院した。これが前線にいた西君らと運命の分かれ道になった。
完治し、前線派遣に備えハルビン市の陸軍病院の錬成部隊で訓練を受けた。確か四五年八月九日と記憶しているが、そのハルビンをソ連軍が爆撃した。十日夜は「ソ連の航空部隊が空から降下して来る」という情報で、「備えよ」と命令が下った。
元気な者はみな前線に行っており、われわれはリハビリ部隊。たこつぼ(退避壕(ごう))に銃を構えソ連軍の来襲に備えたが、精鋭のソ連軍に「今夜限りの命」と覚悟した。だが、来襲はなく夜明けにほっとした。
ハルビンを発ち、通化市へ向かう途中に敗戦を知った。われわれはそのまま平壌、ソウルと南下。武装解除を言い渡されるまで朝鮮半島を転々とした。加世田に帰ってきたときは生きながらえたことが恥ずかしく、人目を避けるようにわが家に戻った。
前線部隊はシベリアに連行され、抑留された。私は病が幸いした。
(2006年8月25日付紙面掲載)