2年に及んだシベリア抑留。過酷な労働とひもじい日々。帰国後、栄養失調ではれ上がった私の顔に幼馴染は「人相が変わった」と驚いた

2023/08/28 10:00
「体力のない補充兵が気の毒だった」と語る西秀美さん
「体力のない補充兵が気の毒だった」と語る西秀美さん
■西秀美さん(81)南さつま市加世田益山

 蔵之元国民学校(長島町)に新任で赴任してわずか二週間後の一九四四(昭和十九)年十月、召集され鹿児島の陸軍一八部隊に入営した。その二日後、九州の各師団の新兵たちが門司に集結し、満州へ送られた。途中の連絡船で熊本に入営した幼なじみの文ちゃん(春成文夫さん)に出会ったのには驚いた。

 初任地はハイラルで神武屯に派遣された四五年八月、ソ連軍が攻めてくるというので二站陣地(にたんじんち)に入った。八月九日だと思うがソ連軍の戦車の砲撃を受けた。

 戦車は道路しか走らないので、地雷を埋めたりしたが味方の馬が地雷を踏んだりしてうまくいかない。そこで道路脇にたこつぼ(退避壕)を掘って、そこから地雷を差し出す「特攻隊」が組まれることになった。

 長男と一人息子を除く隊員で編成され、二男の私は四班に配属された。だが、戦車の弾幕に撃たれて、三班までは全員が戦死した。

 たこつぼに入っていた八月二十日、ソ連軍の将校と日本軍の将校が一緒に来て日本の敗戦を知らされた。孫呉に集められ、「あちこち鉄道が破壊されているので、復旧しながら日本に帰る」と建設大隊がつくられた。

 私の隊は、シベリアのブラゴベシチェンスクまで行き、さらにシベリア鉄道の西側の隣駅シマノフスカヤに移動させられた。そこでラーゲル(収容所)に入れられた。ラーゲルには千人が収容され、四隅に見張り台があった。「お前らが日本の償いをするんだ」といわれ、「当分日本に帰れないな」と思った。

 作業は冬は伐採、夏は線路の土台整備。毎日一人四畳分ぐらいの土地が分担され、スコップやツルハシで作業するのだが、岩盤だったり土地が凍っていたりでなかなか作業が進まなかった。

 今の食パン一枚ほどの黒パンと薄い塩味のスープが一食分。塩や砂糖は貴重品で、キノコやカエルも捕って食べた。ひもじさの中、作業は零下五〇度にならないと中止されなかった。かわいそうだったのが三十歳、四十歳で初年兵になった補充兵だった。亡くなるのは体力がない彼らだった。

 一年ほどでナホトカに移り、そこでれんがを運ぶ作業中足を大けが。これが幸いして帰国できることになった。抑留は二年。やっと着いた舞鶴で米占領軍から抑留の様子を聴取された。故郷の加世田に帰ると文ちゃんが出迎えてくれたが、栄養失調ではれ上がった私の顔を見て「人相が変わっている」と驚かれた。

(2006年8月26日付紙面掲載)

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