「どんぴしゃり。命中」。九九式艦爆を使った急降下爆撃訓練。後席の同僚は手をたたいて喜んだ。だが、この機体では敵機に追いつけず実現しなかった【証言 語り継ぐ戦争㊦】

2023/09/04 08:33
庭月野英樹さんが鹿児島で受領し、急降下爆撃訓練を重ねた九九式艦上爆撃機(豊の国宇佐市塾提供)
庭月野英樹さんが鹿児島で受領し、急降下爆撃訓練を重ねた九九式艦上爆撃機(豊の国宇佐市塾提供)
■庭月野英樹さん(97)宮崎市希望ケ丘1丁目(鹿児島県南九州市出身)

 米海軍機動部隊による1944(昭和19)年10月10日の沖縄大空襲で、乗機の二式中間練習機(二式中練)を失った私は同月末、沖縄海軍航空隊(沖空)の同僚5人と故郷の鹿児島に派遣された。

 代替機となる九九式艦上爆撃機(九九式艦爆)を受け取るためだ。真珠湾攻撃でも使われた2人乗りの固定脚機で、既に旧式化していたが、曲がりなりにも実戦機だ。うれしかった。

 沖縄周辺には、大空襲以降、米陸軍の大型爆撃機B24が強行偵察に出没していた。急降下爆撃が得意な九九式艦爆の導入は、B24の背後から「三号爆弾」という親子爆弾を投下して撃墜するもくろみからだった。

 姶良郡溝辺村(現霧島市)にあった第二国分基地を拠点に急降下爆撃の訓練をした。3機編隊で離陸し、高度2000メートルに達すると、指揮官機の合図で1列になり、鹿児島湾の中ノ島に置かれた標的を目指して、角度60度で急降下し、高度500メートルで模擬爆弾を投下して機体を引き起こす。強烈な負荷がかかり、目がくらんだ。初弾が標的に収まったのを見て、後席に座る溝辺村出身の偵察員、町田三郎上等飛行兵曹(上飛曹)が「どんぴしゃり。命中」と手をたたいて喜んでくれた。

 訓練中の10日間、私は許されて鹿児島市の叔母宅から基地に通った。勝目村(現南九州市)から父母きょうだいも訪ねてきて、つかの間の再会を楽しんだ。沖縄は戦場になる可能性が高まり、心の奥では「もう会うことはかなうまい」と感じていた。機中から慣れ親しんだ桜島に別れを告げ、沖縄に戻った。

 残念ながら、三号爆弾を使ったB24攻撃は、九九式艦爆の速度では、敵機に追いつくことができず実現しなかった。

 12月には、沖空は第九五一海軍航空隊に再編された。米軍上陸に備え、搭乗員も飛行機に乗る予定がない日は、半身裸になって壕(ごう)造りに汗を流した。鉄かぶとや竹やりも支給され、「飛行機乗りがこれを使う時が来たら、もうおしまいだなあ」と苦笑いし合った。

 45年は、新年早々から空襲が激しさを増した。そんな中の3月15日、私は石垣島派遣隊に転勤を命じられた。長崎航空機乗員養成所以来の同期生、花田恒男上飛曹が輸送機を見送りに来てくれ、「これが最後だな。長崎以来世話になった。犬死にするな、頑張れよ」と言い合い別れた。

 花田君は10日後、沖縄本島に米軍が侵攻してきた時、もう1人の同期生とともに陸戦隊に編入されて、戦死した。

 軍の命令で、いったんは私とともに鹿児島から持ち帰った九九式艦爆で本土に逃れた町田上飛曹も、1機だけの特攻隊「第二至誠隊」として、4月12日、故郷の基地から沖縄に出撃して亡くなった。

 3月中旬に小禄飛行場にいた搭乗員で生き残れた者はほとんどいない。

 3月中旬、米軍侵攻直前の沖縄本島から第九五一海軍航空隊石垣島派遣隊に異動した私を、逓信省航空機乗員養成所第13期操縦生の同期2人が迎えてくれた。長崎養成所から一緒の玉井淳司君と広島県大津野村(現福山市)にあった福山養成所出身の三村弘君だ。

 石垣島派遣隊の使用機は、以前操縦した二式中間練習機(二式中練)だった。ところが、着任後すぐ、米軍の度重なる空襲で飛行機や平喜名(へぎな)飛行場の隊舎は焼き払われてしまった。

 やむなく搭乗員は、横穴壕(ごう)に寝泊まりしていた。湿度が高く、シラミも多くて眠れない。それで皆で協力して寝るための仮設小屋を造ることにした。

 空襲のない日、一緒に転任してきた茶畑耕一兵曹と屋根ふきをしていたら、米軍機の急襲に遭った。横穴壕に向かって駆け出すと、前を走っていた茶畑兵曹が突然崩れ落ちた。首に機銃弾が当たり即死だった。わずか10センチ、右側を走っていた私は命拾いした。

 輸送機で5月中旬、台湾の虎尾(こび)航空基地に移り、第一三二航空隊内で編成された「神風特別攻撃隊龍虎隊」に編入された。時局柄、特攻はやむを得ないと理解したが、使うのは九三式中間練習機(九三式中練)だという。複葉、布張りの通称「赤とんぼ」だ。失望があったのは否定できない。

 日中、250キロ爆弾を積んで飛ぶと、速度が遅すぎて敵戦闘機の的になるだけだ。だからもっぱら夜間に飛ぶ訓練をした。

 龍虎隊は、もともと零戦に乗っていた搭乗員で構成する1次隊、2次隊が5月下旬と6月上旬に相次いで沖縄に向け出撃したが、与那国島に不時着するなどで不首尾に終わっていた。

 「いよいよ南西諸島の地の利に詳しい自分たちの出番だな」と覚悟を固めていた6月下旬、玉井君とともに、千葉・木更津基地で新鋭偵察機「彩雲」の特攻隊を編成していた第七二三航空隊に異動を命じられた。

 「まっとうな飛行機に乗れる」と喜び、上海経由で日本本土に向かう一式陸上攻撃機に乗り込んだが、同期生で一人残る三村君の心中をおもんぱかる余裕がなかったことが悔やまれる。三村君は7月29、30日に宮古島を出撃した第三龍虎隊の指揮官として、米駆逐艦1隻を撃沈、別の駆逐艦や輸送船も損傷させる戦果を挙げた。

 私も8月15日に出撃予定だったが、終戦でついに命令は出なかった。移動を指示された徳島・市場飛行場で特攻隊の解散命令が出て、故郷に戻った。真夜中に着いた勝目村(現南九州市)の実家では、沖縄で戦死したと思っていたらしい。父は「本当にお前なのか」といぶかりながら、私の体のあちこちを触っていた。

 運命の巡り合わせで、生き延びた。これまでの人生、苦しい時は18、19歳で逝った同期生の顔を思い浮かべ、「彼らに恥じない生き方を」と心がけてきた。私たち戦争を知る世代はまもなくいなくなるが、結婚もできず、子孫も残せずに亡くなっていった多くの若者がいたことを忘れないでいてほしい。

(2023年8月30、31日付紙面掲載)

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