竹で編んだ「テル」に手を添え、米軍政下の生活を振り返る重田シオリさん=龍郷町戸口
鹿児島県龍郷町戸口の元教員重田シオリさん(90)は、奄美群島が米軍占領下に置かれた戦後の8年間を鮮明に覚えている。奄美市名瀬市街地で大半を過ごし、食料や衣類などあらゆる物資が足りない生活を体験。一面焼け野原からの復興をつぶさに見てきた。「みんなが生きるのに必死だった」と振り返る。
出身の戸口集落は水田が広がり、山や海の幸も手に入った。「サツマイモで育ったようなもの。田舎は食べ物に恵まれていた」。それでも救荒作物のソテツの実や幹から毒を抜き、かゆやみそにした。
小学6年時に名瀬の女学校を受験した。防空壕(ごう)で面接の順番を待ち、合格したものの戦況の悪化で学校は閉鎖。敗戦直後の1945年9月に入学した。
再開しても授業どころでなく、街じゅうのがれきの撤去に追われた。校舎は壁だけの青空天井。「日本の歴史や地理は教科書から消され、英語が週5時間あった」と記憶をたどる。
寮で暮らし、米兵の野戦食やメリケン粉、缶詰などを配給された。「三食あっても量が足りない。野草を採り、足しにした」。週末に家に帰るのが楽しみで、竹で編んだかご(テル)に餅などを入れて戻り、寮生と分け合った。
復員した兄の布団を持っていき、20人で12畳の床に寝た。衣料品がなく、米軍放出の軍服「HBT」を仕立て直した。「カーキ色の制服やかばんに変えた。げたを履いていた」と笑う。
3年ほどで寮を出て、就職した姉と暮らした。住まいは壁と屋根がダンボールの掘っ立て小屋だった。救援物資が途絶えると、名瀬市街地の住民は焼け残った家具や調度品を食料と交換するため周辺の町村へ。逆に魚や野菜、卵などを売る地方の行商人が増えた。
そのうち日本本土の服や履物、雑貨などが輸入されるようになり、店が増えてきた。物流が盛んになると、永田川の上に狭い路地の長屋市場が立った。映画館が再建され劇場やダンスホールもでき、にぎわいが戻りつつあった。「社会が落ち着き、娯楽を楽しむ余裕も生まれた。美空ひばりの映画を見た」
高校卒業後、戸口小学校の教師に。「本土に渡航できず、大学進学を諦めざるを得なかった」と無念さをにじませる。日の丸が認められず、白地の中央に桜を描いて代用した。「教員の給料は安く、塩炊きや紙巻きたばこ作りを内職にする同僚がいた」と明かす。
53年12月25日の復帰当日はちょうちん行列で祝った。復帰を勝ち取ったのは素晴らしいとしながら「そもそも戦争がなければ占領されていない。負の遺産だ」と断じた。