自分史「埋もれた記憶」を手にする福嶋仁三朗さん
■福嶋仁三朗さん(78)出水市米ノ津町
一九四三(昭和十八)年三月、米ノ津尋常高等小学校高等科二年の卒業前だった。満蒙開拓青少年義勇軍として農地を機械で耕して、食料を収穫しながら北方の守りをすれば兵役が免除になると聞いたので志願、合格した。茨城県の内原訓練所などで軍事訓練と農業の勉強をして九月下旬、満州に出発した。
満州の鉄驪(てつれい)訓練所に到着。土地は広大だった。しかし冬、氷点下五〇度の寒さはこたえた。手足や耳、鼻などが凍傷になる人が続出、想像を絶した。その中で軍事訓練と農作業が続いた。食糧事情も次第に悪くなった。一食につきコウリャン飯や大豆飯などが丼に三分の一程度だった。就寝前にすし、ようかん、まんじゅうの話をした。生つばが出てきたが、かなわぬ夢に涙ぐんだ。
衛生面も悪く、しばらくして発疹(はっしん)チフスが流行。看病していた自分も罹患(りかん)した。治りかけたと思ったらアメーバ赤痢に感染、隔離病室に入れられた。血便が止まらない。飲食が原因と判断され四十数日、食も水もとらずに注射だけで過ごした。部屋に四人いたが、氷枕の水などを飲んだ三人は死亡した。自分は九死に一生を得た。
四五年八月九日、ハルビン市の中央病院にいた。夜空に閃光が走ると、「ズワーン」「ドンドーン」と鈍い音がした。演習だと思ったが、ソ連軍の侵攻だった。攻撃は日を追って激しさを増した。いつかは日本軍が撃滅してくれると思っていたが、無条件降伏した。
数院を転院。病気が完治せず何度も生死をさまよった。同市の日本難民病院では毎晩四、五人が亡くなった。多いときは八人。原因は栄養失調や病気など。地獄絵図が続き辛い日々が続いた。古里を思い出すと精神的にまいってしまうと思い、考えないようにしていた。
帰国の話が耳に入った。にわかには信じられず「それはデマで、どこかに運ばれ殺されるんじゃないか」と思った。担架で運ばれた。四六年十月、船で佐世保に上陸してやっと帰国を実感した。「生きて帰れるとは」と感激した。渡満前の体重は五十二キロ。帰国の時は約三十キロだった。検疫後、入院した。
郷里に手紙を出した。数日後、病院に父母が面会に来た。声を出そうとしたがつばが引っかかって出ない。飛びつきたかったが体も動かない。涙があふれ次第に両親がかすんだ。落ち着いた後、弁当を出してくれた。昔のままのにぎりめし。また涙が流れた。二つに割って口に入れた。流れる涙がおえつに変わろうとしていると、母に「もうどこにもやらんからね」といわれ親子で泣いた。
古里に向かう道のりを両親が交互におんぶしてくれた。まるで幼児になった気分。そのときの父母の背中のぬくもりは忘れられない。
最後に病気続きだったので、満州で活躍できなかったのが非常に恥ずかしい。しかし、飢えや病魔に倒れていく多くの同胞を見てきた。戦争の悲惨さを子孫まで伝えなくてはならない。
(2007年9月3日付紙面掲載)