1発撃てば1000発反撃されるビルマ撤退戦。身を隠し進むジャングルに食べ物はなく、草や木の皮で飢えをしのいだ。雨で道は川となり、弱った兵士が流されていく。沿道に続く白骨。哀れな死に方をした戦友がかわいそうでならない

2024/05/06 10:00
「生きて帰ることは考えていなかった」と話す上玉里静雄さん=錦江町神川
「生きて帰ることは考えていなかった」と話す上玉里静雄さん=錦江町神川
■上玉利静雄さん(88)錦江町神川

 熊本の陸軍歩兵二三連隊に二十一歳で入隊。満州吉林で本格的な通信兵の教育を受け、新たに編成された森一二九一三部隊の通信隊・独立有線一一〇中隊の一員として一九四四(昭和十九)年六月、南方へ向かった。

 目的地を知らされずに貨物船「新清丸」に乗り込んだ。船中ではサイパン玉砕が伝えられた。一カ月後に着いたのがシンガポール。そこで初めてビルマを目指していることがわかった。

 シンガポールから列車でマレー半島を北上しビルマ入り。国の中央部に位置する古都マンダレーに到着すると、イギリス人の避暑地だった面影を洋式建築に感じたものの戦闘で破壊されていた。

 廃虚と化した街を負傷したり疲弊した日本兵が力なく歩いている。インドの都市インパールの攻略作戦が失敗し、撤退してくる兵士たちだった。服は恐ろしくぼろぼろで見るも無残。それが一年後の自分たちの姿とはつゆ思いもせず、あらためて任務遂行へ気力を奮い立たせた。マンダレーからは車で軍司令部のあるラシオへ移動した。

 ラシオ付近では五六師団(通称龍(たつ)兵団)が中国遠征軍と戦っていた。龍兵団は最強部隊としてその名を知られていたが、日本軍の守備体系が崩れる中で孤立化、兵力の消耗も激しかった。龍兵団と軍司令部との間に通信回線を確保し、転進を支援することが任務だった。

 敵軍の自動小銃に対し、こちらは五発しか装てんできない三八式歩兵銃。一発撃てば千発ぐらい返ってきた。制空権も完全に握られており、身を隠しては攻撃の合間を縫って回線を引いた。

 それでも圧倒的な火力の前に軍司令部は徐々に後退、ついに四五年三月、タイ・チェンマイへの撤退が決まった。通信回線を引きながらジャングルの中を国境越え。その道はあまりに過酷だった。

 食べ物はなく草やバナナの木の皮などで飢えをしのぎ、夜はサソリが怖くて眠れない。現地人ゲリラの襲撃もあった。五月の雨期に入って土砂降りになると、道も川となって弱った兵士が流された。飢えや熱帯病に倒れ白骨化した死体が沿道に続き、「白骨街道」となっていた。衰弱した兵士がいても連れて歩く体力はなく、置き去りにせざるをえなかった。

 敗戦はチェンマイで上官から聞いた。悔しさもあったが、それ以上に哀れな死に方をした戦友がかわいそうでならなかった。今も戦地に向かって手を合わせている。

(2008年10月24日付紙面掲載)

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