近衛兵の軍帽と軍隊手帳、青年学校手帳を手にする田上時男さん
■田上時男さん(88)霧島市横川町下ノ
横川町立青年学校卒業後に徴兵検査を受け、1942(昭和17)年に近衛歩兵第2連隊に入った。近衛兵は東京の皇居や近郊の御用邸などで天皇陛下を護衛するのが仕事だった。
近衛兵は身元調査の上、成績優秀な者が選ばれるとされ、当時“生き神”である陛下のそばで働けることは家の名誉だった。周囲4キロある皇居のあちこちを警護し、皇居内は30メートル置きに歩兵が立った。陛下が通るときは、先に立哨場所に電話連絡があり、兵隊たちは身なりを整え、通り過ぎるまで直立不動の姿勢で見送った。
警護のほかに命令される仕事はさまざまだった。入隊の翌年には幹部として召集兵の教育も担当した。集まったのは30代以上を中心とした約40人。3カ月で武器の使い方などを教え、台湾や南方戦線に送った。品川駅から出征する彼らを残される妻や子どもが見送りに来た。「うちの人は大丈夫ですかね」と聞かれたので「勝つんだから大丈夫ですよ」と答えた。
だが、銃を持たされたのは10人に1人。銃を持たない人間が戦場に行くのは死にに行くようなものだった。とても日本が勝つとは思えなかった。今もあの時の彼らはどうなったのだろうと考える。
終戦の年の2月から3月には、栃木県にある日光御用邸に疎開した皇太子(現天皇陛下)の護衛をした。そのころ、皇居の中に焼夷(しょうい)弾が落ち、警備していた兵隊が死亡したと聞いた。戦争中、皇居が攻撃を受けたことは国民には絶対秘密にされたが、この話を聞き日本は負けるだろうと思った。
皇居の護衛は3日に1日の交代勤務。非番の日、上司の命令を受け、部下30人近くを連れて東京の街中に行き、空襲で亡くなった人の遺体を埋める作業に数回携わった。
都会は山がないため大きな防空壕(ごう)が造れず、道路沿いに待避壕を造って隠れる。焼夷弾で燃えた家から火が移ったり、煙が充満したりして多くの人が亡くなり、道路沿いに遺体が並んでいた。
遺体をわらや竹で編んだむしろにくるみ、トラックに積んで墓地に運んだ。幅数メートル、長さ数十メートルの穴を掘り、5人ずつ積んで埋めた。胸に付いた紙で住所や名前が分かれば板の墓標を書いたが、焼けて見るに堪えないものが多かった。数日は体からにおいがとれなかった。
小さいころから兵隊になるための教育を受けた。若い人は分からないと思うが、兵隊は人を殺傷するのが仕事。人を殺すのが戦争。だから恐ろしい。戦争はしちゃいけない。
(2009年8月18日紙面掲載)