「100キロあった体重が30キロまで落ちた」と語る中村武彦さん=肝付町新富
■中村武彦さん(86)肝付町新富
ソ連との国境に近い満州(現在の中国東北部)の虎林(こりん)で、山砲部隊として警備に当たっていた。当時は不可侵条約が結ばれており、身の危険を感じることもなく緊張感はほとんどなかった。
その平穏は1945年8月9日未明、突然破られた。非常呼集のラッパが鳴り響き、飛び起きた。非常呼集は戦闘態勢をとることを意味している。何が起こったか分からないまま、すぐ配置についた。
ソ連軍が国境を越え、戦車で向かってきているという情報が入った。不可侵条約を一方的に破ることは想像したこともなかったから、驚くとともに「ひきょう者」とののしりたい気持ちでいっぱいだった。
大砲4基で迎え撃ったが、砲弾は南方戦線へ持っていかれており、2時間もしないうちに弾切れ。あとで聞くと、全部で250発しかなかったという。なすすべもなく退却命令が出て、約1千キロ離れた安東(あんとう)まで歩いた。
そのまま終戦となった。ソ連兵に武装解除され「大連から船で日本へ帰す」という言葉に、喜んで列車に乗り込んだ。ところが行けども行けども海は現れず、変化のない広大な風景の中を走り続けた。だまされたことにうすうす気付いたころ、停車した列車から脱走を図る者もいたが、列車の屋根で見張っていたソ連兵の標的になった。
1週間ほど列車に揺られ、満洲里(まんしゅうり)を経て着いたのはシベリア。駅名は覚えていないが、銃殺されると思い、みんな一緒に死のうと話していたから淡々と受け入れた。
そこから2時間ほど歩いた山の中にテントを張り、原木伐採を命じられた。切り倒した木を2メートルの長さにそろえて、一定の高さに積み上げていく作業を毎日繰り返した。冬は防寒着を与えられたが氷点下40度にもなり、寒さを通り越して針に刺されるような痛さだった。軍服の着替えはなく、シラミの巣になっている者も多かった。
食料は小さなパンと薄いスープ。たちまち栄養失調になり、毎日のように仲間が死んでいった。100キロ近くあった自分も、骨と皮だけの30キロにやせ最後は力仕事もできなくなった。ヘビやネズミはごちそうに見え、捕まえては皮をはいで生で食べていた。復員してすぐのころはその習慣が抜けず、実家でもアオダイショウを捕まえて皮をはいで食べようとした。母親が悲鳴を上げ、「頭がおかしくなった」と嘆いたのを覚えている。
シベリア抑留は2年に及んだ。ナホトカから帰国するとき、徐々に近づいてくる船の日の丸に涙が止まらなかった。周りもみんな声を殺して泣いていた。
(2009年8月19日紙面掲載)