「7月17日」に、長田町方面に爆撃があったことを記す鹿児島市立女子興業学校の教務日誌=鹿児島市(画像は一部加工してあります)
太平洋戦争末期の空襲で被害を受けた鹿児島市立女子興業学校(現鹿児島女子高校)の当時の教務日誌は、同校の生徒13人が犠牲になった1945(昭和20)年6月17日の記述以外にも、複数の空襲があったことを記録している。中でも「7月17日」は、鹿児島市史にも記載されておらず、これまで実態が知られることもなかった、いわば「忘れられた空襲」だ。
鹿児島市空襲はこれまで、昭和30年代の「戦災復興誌(建設省編)」や被災者の回顧録などをもとに、45年3月18日~8月6日の8回とされてきた。鹿児島市史(70年)も踏襲し、広く定着した。
鹿児島市街地が焼夷空襲で壊滅的な被害を受けた6月17日付から始まる教務日誌は、その被害やその後の学校や周辺で起きた出来事を記している。空襲被害に注目すると、7月17日付に「長田町方面二爆弾攻撃ト機銃攻撃ヲ受ク」との記述が残る。
同27日付には「上町方面爆撃ヲ受ク」、31日付には「鹿駅付近相当ノ爆撃ヲ受ク」と記す。これら2回は「8回」に含まれ、日誌の記録通りに、鹿児島駅周辺の上町地区が被害に遭ったことが知られている。
7月17日付の長田町方面の空襲については、米軍側の戦闘記録や当時の新聞記事と符合する。同18日付の鹿児島日報は17日午前、「沖縄を発進した小型の一編隊機」が鹿児島市で激しく銃弾を相当数発射し、一部に投弾もあったと報じている。米軍の資料からも、17日午前10時15分、鉄道輸送を妨害するため、鹿児島駅付近のトンネルをP47戦闘機28機が爆撃したという(工藤洋三著「日本の都市を焼き尽くせ!」)。
教務日誌は、市教育委員会文化財課が保管している。圖師みゆき課長は「教務日誌は当時の空襲被害の状況や学校の様子が分かる貴重な資料。今後詳細な調査を進めたい」と話している。