荒田国民学校教員時代の写真を手にする長丸シズさん
■長丸シズさん(87)霧島市横川町上ノ
鹿児島市の荒田国民学校教員だった23歳の時、両親と上之園町に住んでいた。空襲のあった1945(昭和20)年6月17日はよく晴れた日曜日で、庭の防空ごうに入れていた布団を干した。親は旧横川町の実家に田植えに行っていて、16歳の義理の妹と2人だった。
深夜、外で鳴き声や叫び声がして目が覚めた。街は火の海だった。外で死ぬより家で死ぬ方が親に見つけてもらえると覚悟を決め、防空ごうに入った。やっと落ち着いたと思ったら、雷が落ちたような大きな音がして火の玉が飛び込んできた。焼夷(しょうい)弾だった。反対側の出入り口からはうように外に逃げた。
水をかぶり、裏の畑の方に走った。隣の家との間は狭く、軒下のひさしから真っ赤な炎が迫っていた。何百匹のヘビが長い舌を出しているようで足がすくんだ。意を決して走り抜けると裏門も燃えていた。高い壁を登るしかなかったが何度登っても途中で落ちてしまう。炎の熱気を感じこのままでは死んでしまうと最後の力を振り絞った。裏の畑に飛び降りた時、助かったと思い涙が出た。安心したのもつかの間、炎で照らされ昼のように明るい空を見ると爆撃機が数機迫ってきた。もうだめだとあきらめたが攻撃はなかった。
義妹と旧制鹿児島二中(現甲南高校)に向かう途中、煙で息苦しくなりハンカチを水でぬらして口に当てた。校舎は焼け、コンクリートの講堂だけがぽつんと残っていた。中には大勢の人が来ていた。窓の外を見ると焼けずに残った家もあったが、見ているうちに焼夷弾が落とされ燃えてしまった。「ここもやられるかもしれない」と誰かが言い出して生きた心地がしなかった。夜明け前、義妹の親が来て「一晩中、甲突川の中にいて助かった」と紫色の唇をガタガタと震わせていた。
夜が明けて自宅を捜した。一面焼け野原で道路も分からず、電線がぶら下がり、焼けた灰が熱かった。自宅は跡形もなく、八角形の焼夷弾の殻が八つ落ちていた。隣のおばさんの防空ごうをのぞくと、ぱんぱんに膨らんだ黒こげの大きな犬の死体があった。家族を捜しに行ったおばさんの帰りを待っていたのだろうか。知人の家に泊まり、次の日、鹿児島駅に向かった。駅近くの滑川あたりだったと思うが、全身やけどをした裸の人たちが横たわっていた。水ぶくれがぶら下がり、気の毒というより地獄を見ているようで恐ろしかった。
横川で父と再会した。前の日に母が私を捜しに出かけたが、大隅横川駅で人から「上之園町は全滅した」と聞き実家に引き返した。父はあきらめきれず駅に向かっていた。泣きながら抱き合ったあの感激は今も忘れない。父を思う時、必ずその光景が浮かんでくる。
国がなくなれば自分は生きている意味がないと思い戦争に協力した。宗教のために命を捨てるテロと同じ発想で恐ろしい。お互いを殺し合う戦争はしてはいけない。
(2010年1月9日付紙面掲載)