3人の子に戦争の話はしなかった。骨で帰ってきた弟、帰還しなかった兵隊たち、降り立った広島で見た惨状…戦争はだめだ。国のトップがしっかりしないといけない【証言 語り継ぐ戦争】

2024/07/28 16:30
蒸気機関車での仕事について話す徳永喜右衞門さん=薩摩川内市中村町
蒸気機関車での仕事について話す徳永喜右衞門さん=薩摩川内市中村町
■徳永喜右衞門さん(101)薩摩川内市中村町

 1923(大正12)年、旧川内市中村町に4男4女のきょうだいの長男として生まれた。市内の小中学校を卒業した後は、実家の農業を手伝い、鎌やくわを使って米作りなどに励んだ。

 近所に住んでいた1歳下の妻・朗子(2019年に死去)と20歳で結婚した。その後、鹿児島や熊本など九州南部の出身者で編成された陸軍第6師団の一員になった。与えられた任務は、蒸気機関車の機関士。他4人と一緒に汽車で川内駅から門司駅に向かい、船で満州に渡った。平壌の学校に3カ月通い、蒸気機関について学んだ。10人ほどに分かれて、指導員に付きっきりで操縦の仕方を訓練してもらった。

 学校を出ると、機関車の掃除から始まった。その後、石炭を入れる練習をした。次第に石炭がなくなり、山で取ってきた木を割って薪にして、燃やして蒸気を起こした。

 平壌からソ連国境に近い牡丹江まで、特急で4時間かけて兵隊を送った。一度に乗せる兵隊は10人ほどで、他に一般客もいた。兵隊を見送る時は、駅にいる人たちが乗り場に出て、赤いたすきをかけて「天皇陛下、万歳」と大きな声で見送った。兵隊たちはその後、帰ってくることはなかった。

 洗濯や食事の準備は上官の分もこなした。洗濯は井戸水を使った。みんなが起きる前の朝4時から始め、おけに張った氷を割り、手を突っ込んで洗った。気温はマイナス35度くらいで、凍傷で指は腐って関節の骨が出てきた。それを見た機関区長や助役が病院に連れて行ってくれた。2人とも鹿児島の出身でよくしてくれた。乾いた洗濯物は、きれいにたたまないと上官に崩されたが、自分は得意だった。今も自分の衣類をたたんだり、食器を洗ったりしている。

 日本の敗戦は、牡丹江で聞いた。仲間と「だめだろう」という話はしていた。アメリカは強かった。人間の数は多く、大砲など道具も優秀だった。戦時中は、自分が生き延びることが一番だった。

 戦争が終わると、平壌から船で広島に引き揚げた。原爆が落ちた後の広島は焼け野原で、遺体をよけながら歩いた。マスクをしていたが、臭いがきつかった。熊本まで汽車で向かい、歩いて川内まで帰った。足は丈夫だった。健康な体に産んでくれた親に感謝している。

 故郷に戻ると、国鉄に勤める人もいたが、自分は農業をした。三つ下の弟は、満洲で捕虜になったと聞いた。行方が分からなくなっていたが、骨になって帰ってきた。

 その後、3人の子どもに恵まれた。戦争の話はあまり家族にはしてこなかった。思い出したくなかったからだ。

 時代は変わり、兵器は進化して強さが増した。ロシアとウクライナの争いなどの報道を見ると「家族がかわいそうだ」と思う。あんなことはしたらいけない。戦争は絶対にだめだと強く訴えたい。そのためには、トップがしっかりしないといけない。

(2024年7月27日付紙面掲載)

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