操縦席が見えるほど低く飛ぶ米軍機。4歳だった私は逃げることに精いっぱい。逃げて、飛行機が過ぎたらまた遊ぶ、の繰り返しだった【証言 語り継ぐ戦争】

2024/07/29 17:30
戦後に小川町で開かれていた闇市について語る米盛司郎さん=鹿児島市
戦後に小川町で開かれていた闇市について語る米盛司郎さん=鹿児島市
■米盛司郎さん(83)鹿児島市田上台3丁目

 1945年、私は4歳だった。戦争を思うと、「逃げた」光景が浮かんでくる。当時、鹿児島市易居町に30代の両親、姉1人と兄3人、2歳下の弟と暮らしていた。母のおなかには妹もいた。

 母が臨月だったから、3月か4月か。空襲警報が鳴ったのだと思う。タンスや布団などの家財道具や貴重品をリヤカーと大八車に載せ、伯母の家がある伊敷に逃げることになった。学校に通っていた兄や姉はいなかったから、昼間だったのだろう。私は母が作った防空頭巾をかぶってげたを履き、荷台を押して歩いた。

 国道3号は、同じように荷物を抱え、市街地から避難しようとする人たちでいっぱいだった。「後ろを見るな」。大人たちの声が聞こえた。とにかく迷子にならないよう必死だった。少しでも人混みを避けるためだったのだろうか。父は途中で甲突川の橋を渡ることを選び、みんなで対岸の細い道をひたすら進んだ。無事に伯母の家に着き、兄や姉も遅れて避難してきた。

 疎開後も空襲は続き、1日に数回防空壕(ごう)へ避難する日もあった。市街地に向かう米軍機は川べりを低く飛んだ。ゴーッと大きな音がして、風で木の葉が大きく揺れた。ある時は、操縦席に乗っている人の姿まで見えた。まだ幼く、逃げることに精いっぱいで、怖さは分からなかった。逃げて、飛行機が過ぎたらまた遊ぶ、の繰り返しだった。

 空襲で易居町は焼け野原になった。建物で残っていたのは市役所や当時の県庁、南日本新聞社、南日本銀行、山形屋くらいだったと思う。自宅があった場所にはバラックが立ち並び、知らない人が住んでいた。小学校に上がる前に伊敷から小川町に引っ越し、両親は青果店を始めた。

 周辺ではまだ闇市が開かれていた。鹿児島駅が近かったため、作った米や野菜を売りに来た人たちが、店の畳のスペースでよく休憩していた。店に来た人とのおしゃべりや、街頭の紙芝居、静止画をスクリーンに映す「幻灯」が子どもの頃の楽しみだった。

 夜になると治安が悪く、両親は子どもたちが非行に走らないようスポーツを勧めた。私は長田中学校で野球を始めた。鹿児島玉龍高校時代は投手として甲子園に出場。その後も鹿児島鉄道管理局で選手や監督として携わり、野球は私の人生そのものになった。

 ロシアのウクライナ侵攻やパレスチナ自治区ガザのニュースに映る子どもたちを見ると、当時の自分や臨月の母の姿が重なり胸が痛む。戦時中の記憶はわずかしかないが、それでも経験した一人として、今もなお世界で戦争が続いていることを残念に思う。

 日本では、戦争を経験していない世代が増えた。若い人たちが戦争を知ろうとすることや、聞いた話をさらに語り継いでいく大切さを伝えたい。

(2024年7月28日付紙面掲載)

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