8月9日午前11時3分、長崎のトンネル内の工場に雷が走り、挺身隊の多くが命を落とした。歩けるからとそのまま帰され、たどり着いた鹿児島で足に刺さったガラスを抜いた。戦後40年たって、まだ痛む左腕を調べてもらうとガラス片が見つかった。一生忘れられない記憶とともに、大切に保管している【証言 語り継ぐ戦争】

2024/08/05 11:00
長崎での被爆体験を語る笠利イモコさん=奄美市笠利
長崎での被爆体験を語る笠利イモコさん=奄美市笠利
■笠利イモコさん(96)奄美市笠利

 1944(昭和19)年4月、名瀬町(現奄美市)の名瀬港から連絡船「金十(かなと)丸」で鹿児島に渡り、汽車で長崎市に向かった。「大島女子勤労挺身(ていしん)隊(大島女子挺身隊)」として三菱兵器大橋工場で働くためだ。

 当時16歳で大島紬の織り子の見習い。笠利村(同)役場から徴用通知が届いた。兵隊さんと同じ「赤紙」だった。与論島や徳之島、大和村の人も一緒に行った。

 奄美群島出身の約70人と三菱兵器住吉女子寮で暮らした。島唄「行きゅんにゃ加那」の節に合わせ、「会社の豆めし食いたくない」などと替え歌を歌ったものだ。向かいの山に大きなトンネルがあり、敵の攻撃を避けるために運び込まれた多くの機械が稼働していた。

 大橋工場は一つの集落と同じくらい広かった。クレーンで魚雷をつり下げ、水をためたタンクに入れて検査する。その後やすりで磨く仕上げの作業を群島出身の4人一組で担当していた。

 45年8月9日午前11時2分。パーッと雷のような光を見た気がする。気が付いたら血まみれで、半地下式の部屋から地上に20メートルほど吹き飛ばされていた。魚雷が爆発したのかと思った。私以外の3人は助からなかった。

 工場のガラスは粉々に割れた。多くのクレーンが倒れ、大勢の人が下敷きになっていた。遺体がごろごろ転がり、「助けて」と叫ぶ声やうめき声を聞きながら走って外に出た。この時の光景は今も記憶に残っている。一生忘れられない。

 長崎県諫早市の学校に収容されたものの、歩けたから軽傷扱いで治療してもらえなかった。罹災(りさい)証明書をもらい汽車にただで乗れたので、大口町(現伊佐市)を目指した。笠利出身者が疎開していると聞いていたからだ。

 道中で偶然知り合った同郷者のおかげで、大阪から疎開していた兄の義常に再会できた。「神さまの助けだ」と思い、とてもうれしかった。私を捜しに長崎まで行こうとしていたらしい。

 しばらく兄の家で過ごした。背中の傷を診た医師が、交換した古いガーゼがキラキラと光っているのを見て「これは何」と驚いた。工場のガラスくずがくっついていたのだ。ふくらはぎや太ももにはガラスの破片が突き刺さったまま。服にこすれればとても痛く、兄に引き抜いてもらった。

 この年の冬、笠利に帰った。空襲でやられ一面焼け野原になっていた。同じ集落から挺身隊に徴用されたのは10人ほど。うち3人が亡くなった。

 長崎で被爆したことは隠していた。「子どもができない」といったデマが流れ、話せなかった。20代前半で結婚し、5人の子宝に恵まれた。

 75年に被爆者健康手帳をもらった。「長崎県被爆者手帳友の会」の深堀勝一さん、同じ笠利出身の挺身隊員で被爆した豊田サチヱさんには、本当にお世話になった。

 左肘から手首の間の真ん中付近がずっと痛く、レントゲンを撮ったらガラス片が埋まっていた。85年に日赤長崎原爆病院で取り出した。先生から「宝だから取っておきなさい」と言われ、大切に保管している。今でも押さえると痛い。

 挺身隊員らの「鹿児島県原爆被爆者福祉協議会奄美支部」は毎年8月9日、奄美市のホテルに集まっていた。歌を歌うなど楽しかったが、もう会っていない。メンバーのほとんどが亡くなった。

 大変な思いをしたから今は天国。二度と戦争を繰り返してほしくない。次に爆弾が落とされれば世界が全滅してしまう。

大島女子勤労挺身隊 軍需工場などの労働力不足を補うために徴用された女性組織。奄美群島では1944(昭和19)年に入り、14歳から25歳までの未婚者で、婚約していない女性約2500人が動員されたという。戦時下で大島紬の生産が制限されたのに伴い、手のすいた織り子が対象になった。うち長崎県に約1200人が送られ、約200人が原爆で死亡。約500人が島に帰ったとされる。

鹿児島のニュース(最新15件) >

日間ランキング >