戦没した船のパネルが並ぶ中で「これが富山丸」と指し示す大井田孝さん=2日、神戸市の「戦没した船と海員の資料館」
太平洋戦争中、人や物資を輸送するため商船や漁船など多くの民間船舶が国に徴用され、米潜水艦の魚雷などで沈んだ。特に80年前の1944(昭和19)年以降、戦況の悪化に伴い被害が大きくなった。「戦没した船と海員の資料館」(神戸市)によると、鹿児島県周辺海域では60隻超が沈み、1万人以上が亡くなった。
戦没船の記録を見ると、旧日本軍の無謀な輸送計画が浮かび上がる。「戦没した船と海員の資料館」で調査を続ける大井田孝さん(82)=神戸市=は「甚だしい人命軽視だ」と憤りを隠さない。
3700人超が亡くなったとされる富山丸(7089トン)には約4600人が乗船していた。「1坪に11人が詰め込まれた」という生存者の証言も残る。大幅な定員超過で、被害拡大の一因となった。
約3カ月後の1944(昭和19)年9月25日、鹿児島県十島村中之島沖で戦没した武洲丸は、疎開するために乗船した徳之島島民148人が犠牲になったとされる。護衛は木造の駆潜特務艇2隻で潜水艦に対抗できる態勢ではなかった。
41年の真珠湾攻撃の後、米国は日本の船舶に対して無制限で攻撃するよう航空部隊や潜水艦に命じた。
富山丸を沈めた潜水艦スタージョンの哨戒報告書によると、同艦は攻撃までの数日間、沖縄と鹿児島県徳之島の間を周回していたことが分かる。船団を確認した1時間後、富山丸へ4発の魚雷を発射した。4日後には奄美大島沖で大倫丸(船員ら19人死亡)も撃沈された。
大井田さんは「南西諸島周辺は米軍が用意周到に待ち構えている状況だった。にもかかわらず、旧日本軍は乗員の命を助ける戦略を立てなかった」と嘆いた。