殴る蹴るが当たり前の平壌歩兵第44部隊。上官のびょう付きスリッパで張られた頰は腫れ上がり、1週間は食事をかめなかった【証言 語り継ぐ戦争】

2024/08/18 17:00
召集令状が来る前、18歳の大久保利成さん=1943年夏
召集令状が来る前、18歳の大久保利成さん=1943年夏
■大久保利成さん(99)鹿児島県伊佐市大口里

 1925(大正14)年2月、伊佐市大口里に生まれた。父・依義、母・タメとの間に男ばかり4人兄弟の3番目だった。長男は2歳で病死し、四つ上の次男・国雄にかわいがられながら育った。家業は稲作、養蚕をしていた。

 大口尋常高等小学校を卒業後、鹿児島勤倹銀行大口支店に就職。国雄は朝鮮半島の平壌の陸軍造兵廠(しょう)平壌兵器製造所に就職しており、「朝鮮の給料は在鮮加俸(手当て)が5割増しだ。内地より給料が良い」と誘い、16歳で同じ製造所に入った。寮は同部屋で、何かと面倒を見てもらった。

 太平洋戦争は始まっており、国雄の出征が決まった。膝枕をしてひげをそってもらい、「一人で暮らすのだから頑張れよ」と言われた。これが今生の別れになるとは思いもしなかった。

 44年8月に召集令状が来て、平壌歩兵第44部隊への配属が決まった。召集が満19歳に引き下げられ、徴兵検査も甲種合格しており、さほど驚きもしなかった。入隊前に10日間ほど帰郷し、家族と過ごした。

 戦況は悪く、出征することすら秘密扱いでひっそりとした旅立ちだった。9歳下の弟・一成はまだ小学生だったが、「両親やあとのことを頼む」と言い残した。

 朝鮮半島との行き来は、下関と釜山を結ぶ関釜連絡船を利用する。父は下関まで汽車に同乗し、連絡船に乗るまで見送ってくれた。汽車の窓は閉め切り、外は見えない旅だったが、うれしかったことを覚えている。戦死の公報や遺骨も戻らない時代に、わが子を戦地に送り出す両親の気持ちを察すると本当につらかったと思う。釜山までは敵の潜水艦を恐れ、ジグザグに進むので普段の倍、時間がかかった。

 召集令状の翌月に入隊した。重機関銃の訓練もあった。銃座まで入れると60キロ近くになり、2~4人で搬送する花形兵器だ。私は、2歳のころ足踏み脱穀機に左手を入れ、3本の指先を欠損し力が入らず、落としたら営倉(懲罰房)入りになりかねない。他の人に迷惑がかからないよう、上官に申し出て99式軽機関銃の組に替えてもらった。

 上官からの殴る蹴るは当たり前だった。演習の合間の昼食は、配膳の準備から片付けまで1時間しかなく、小銃を立てかけたまま急いで食べた。すると「小銃の手入れをする前に食べるとはけしからん」と裏にびょうが付いたスリッパでほおを張られた。腫れ上がり、1週間はかむことができず、食事をのみ込むようにして流し込んでいた。

 仁川で陣地構築をしていたとき、終戦を迎えた。ラジオが古く聞き取れず、大隊長が「敵が攻撃してこない限り応戦しないように」との訓示があり、停戦かと思った。

 8月末に師団長命令で平壌駅に到着し、武装解除が言い渡された。そこで初めて無条件降伏したことを知った。

(2024年8月7日付紙面掲載「平壌歩兵部隊、抑留、引き揚げ㊤」より)

鹿児島のニュース(最新15件) >

日間ランキング >