1942年1月、朝鮮半島に渡った記念に撮影。(前列右から)大久保利成さん、兄・国雄さん
■大久保利成さん(99)鹿児島県伊佐市大口里
1946(昭和21)年1月に入所したカメノシカ収容所での生活は過酷だった。トイレは屋外に大きな穴を掘り、丸太を何本か渡した足場に踏ん張り、用を足した。今振り返ると、あの寒さの中、よくズボンを脱げたものだと思う。小便は、部屋を出てすぐそこで済ませる人がほとんどだったので、出入り口には氷の山ができていた。
食事はコーリャンやトウモロコシの粉末を溶かしたものと黒パンだけ。量は作業内容の出来高制で、目標通りだと食器に水平に盛り、下回ると減らされ、上回ると大盛りになった。ソ連兵が指示をして日本人が配膳した。満足な栄養が取れず、伐採中に集める松の木の実が何よりのごちそうだった。
脱走者も出た。ある夜、銃声がした。翌朝、鉄条網の柵のところで銃殺された死体があった。見せしめとして1カ月ほど放置されていた。私は「こんなところで死んでたまるか」と帰る希望は捨てなかった。ただ、仰ぎ見ると美しい星空がどこまでも広がっており、「古里でも家族らが同じ空を眺めているのでは」と望郷の念に駆られた。
47年1月ごろ、同じアルチョム地区のスプチンカ収容所に移動し、引き続き松の伐採作業をした。1年後に近くのアルチョム収容所に移った。炭鉱労働で、ソ連の民間人も多かった。ダイナマイトで崩した岩石を、日本人がスコップでベルトコンベヤーに載せる作業だ。たまに落盤し、命の危険を感じながら4カ月ほど働いた。
5月中旬、「ダモイ(帰国)」と言われた。「またうそだろう」と半信半疑だったが、ナホトカに着くと日章旗を掲げた船がおり、船員も日本人だった。先に港に着いた帰国組が乗船し、みな喜んで声を上げていた。見送りながら、「今度こそ帰国できる」と安心した。
「明優丸」に乗船後、2年半もの抑留生活を経て、ようやく帰ることができるのが本当にうれしかった。本州の島影が美しくずっと見とれていた。6月23日に舞鶴港に到着した。
舞鶴では帰還手続きに3日かかった。就職あっせん所があり、「実家は兄の国雄が継ぐので、仕事を決めてから帰ろう」と申し込んだところ、係員が「家族は一日千秋の思いで待っている。いったん家に帰ってから決めた方がいい」と言われた。
実家には、電報を打ったため、水俣駅に父親が迎えに来てくれた。そこで、国雄がシベリアに送られる途中の45年12月に亡くなったことを知らされ、ショックを受けた。その後は、古里で農業をして暮らした。
世界中で戦争が起こっているが、どんな理由があったとしても絶対にしてはいけない。誰もが自分の思うようには何もできないからだ。一刻も早く停戦してほしい。
(2024年8月9日付紙面掲載「平壌歩兵部隊、抑留、引き揚げ㊦」より)