戦時中の写真など資料を前に語る吉ケ別符利夫さん=鹿屋市上野町
■吉ケ別符利夫さん(99)鹿児島県鹿屋市上野町
1925(大正14)年、鹿屋市下高隈町で生まれた。8人きょうだいの長男で、家は貧しい唐芋農家だった。地元の尋常高等小学校を出た後、16歳で大根占営林署に就職。43(昭和18)年夏、陸軍に志願した。18歳だったが、20歳でどうせ赤紙がくる。それなら国のために早く行きたいと考えた。「どの道死ぬんだ」という思いだった。
12月に朝鮮行きが決まった。博多港から連絡船で釜山港にたどり着き、軍用の貨物列車のコンテナに詰め込まれ、1日以上かけて京城(現韓国ソウル)へ向かった。真冬の凍えるような寒さは今も肌が覚えている。
朝鮮第22部隊第4中隊への配属が告げられ、京城に着いてからは半年訓練をした。軍服で5キロ近く駆け足する「行軍」がきつく、時には数十人で実施して兵舎に帰り着いたのが4人の時もあった。挙動が遅いと平手打ちされるなど、上官のしごきはひどかった。
何事も一番を目指す性分で、一生懸命日々をこなすうちに、現地の教育隊で指導する立場にもなった。月単位で隊の転属を繰り返し、二等兵から最後は伍長になった。階級が上がるのが唯一のささやかな喜びだった。
終戦までの主な任務は塹壕(ざんごう)掘り。京城から列車で南下しながら、停車した場所でツルハシを振るい続けた。爆薬も使ったが、今みたいな重機はなかった。食事は、わずかな現地の穀物「コーリャン」。飢えが一番きつかった。
時々ある演習では、爆弾を抱えて塹壕から敵に体当たりする決死隊の訓練をした。今考えると恐ろしいが、当時は空腹で疲れもたまり、自分の主義主張を通そうなんて思いもしなかった。作業中に仲間と話すのは「敵が来たらどうやって死ぬか」ばかりだった。
終戦を知ったのは45年8月16日。韓国中部の群山という都市で、「大事な話がある」との命令で集まった朝礼だった。上官が「敗戦に追い込まれた」と涙を流して伝えた。泣き出す者もいたが、われわれの隊は「日本軍として最後まで恥じぬように」と、終戦後も一糸乱れぬ集団だったと思う。一方、地域に悪さをした隊もあったと聞いた。
その後、米軍の捕虜となり、列車で南下を続けながら、その日ごとで違う肉体労働に従事した。釜山港に着くと、港での荷降ろし作業が多かった。米兵にはどこか余裕があり、細かいことは何も言われず悪い思いはしなかった。ドロップ缶や、荷物から飛び出た洋服をもらったりもした。食事も不自由なく、48キロまで減っていた体重が65キロくらいまで戻った。
「米軍としてまた集められる」「ソ連に連れて行かれる」など多くのデマが飛び交い、隊内も混乱していた。朝鮮で11月まで作業し、来た時と同じように船や列車を乗り継いで鹿屋にたどり着いた。ようやく「生きて帰ってきた」と実感した。その後、地元で結婚して薪炭生産を始め、木材販売会社を立ち上げた。
戦時中は死ぬと思っていたが、ここまで生きてこられた。一緒に博多港に集まった戦友の中には、南方で戦死した人も多い。今でも、塹壕作りの日々を体が覚えている。争いがなくなり、平和な世の中が訪れてほしい。「戦争は何にもならない」と、軍歴が記された軍隊手帳を見るたびに思う。
(2024年8月18日付紙面掲載)