フィリピン沖に沈んだ軽巡洋艦「能代」。生き延びた私は定年後、戦友の消息をたどった。慰霊団で太平洋戦争の激戦地も巡った。「息子に時計を買ってやれなかったから」…戦死した海域に金時計を投げ入れた遺族の気持ちに衝撃を受けた

2024/09/09 10:00
戦争の記録、記憶をつづった本と備忘録を手にする新川義雄さん=上荒田町
戦争の記録、記憶をつづった本と備忘録を手にする新川義雄さん=上荒田町
■新川義雄さん(87)鹿児島市上荒田町

 1937(昭和12)年に鶴丸尋常高等小学校(日置市東市来町)を卒業し、上京して働いていた。42年5月に志願して横須賀海兵団に入団した。

 44年2月、軽巡洋艦「能代」に第二水雷戦隊旗艦能代司令部付主計科員として乗艦。10月後半、戦艦「大和」「長門」などと共に、日本海軍が総力を投入したフィリピン・レイテ沖海戦に参戦した。

 能代は10月26日、米機、艦船の魚雷を被弾。私たち乗組員は海に飛び込んだ。艦は8分ほど浮いていたが、同国パナイ島北西沖に沈没した。海面が渦を巻き艦が沈む様子を鮮明に覚えている。板ぎれにつかまりながら2時間以上、重油まみれの海に漂った。軍歌「海行かば」を歌い仲間と励まし合った。

 同じ艦隊の駆逐艦「秋霜」が救助に到着し、ロープを50本ほど垂らした。重油がまとわりつき滑りやすいロープをよじ登った。途中、力尽きた人は海に落ちていった。海軍戦闘詳報によると、全乗組員726人のうち秋霜に救助されたのが328人、戦死87人、負傷者51人、ほかは不明だった。

 同年11月半ば、フィリピンから巡洋艦「矢矧(やはぎ)」で帰国。四国の沖で長門に乗り換え、23日に横須賀に帰還した。その後、沈没した能代の残務整理にあたっていたが、45年3月10日、北海道千歳に転勤となり終戦を迎えた。

 当時、北海道では空襲がほとんどなく、おかげで生き延びることができた。「九州は全滅」と聞いていて両親のことはあきらめていたが、突然、母から半年前の日付のはがきが届き、驚いた。

 同年秋、鹿児島に戻ると両親が元気な姿で迎えてくれた。仏壇には自分の陰膳(かげぜん)が供えてあった。11月には県庁に就職。戦争のことは口を閉ざしていた。

 ところが、30年余りも過ぎた76(昭和51)年5月、新兵当時の戦友の夢を見た。アルバムを開くと、2人で並んだ写真があった。「生きているかも」と旧厚生省で調べたが、彼は43年に戦死していた。出身地だった北海道を訪ね、墓参りをした。

 これをきっかけに、能代の戦友の消息を調べ始めた。81年に定年を迎えてからは調査を本格化し、85年ごろまで続けた。86年秋には戦没者の遺族で結成された慰霊団に参加し、フェリーで太平洋の激戦地を回った。

 船団長が、ある遺族から「当時、息子に時計を買ってやれなかったから」と託された金時計を、戦死した海域に投下するのを見た。子を思う親の気持ちに衝撃を受けた。

 「生き残った自分も戦友たちを慰霊したい」と思い、薩摩焼で造った観音像をレイテ沖に沈めようと考え海運業者に託したが、かなわず像は返却されてきた。そこで自宅に観音像を据え、毎日手を合わせた。妻の死後は鹿児島市の県護国神社に像を寄贈。2001年、高齢のため「最後」と決めて同神社で戦友の慰霊祭を行った。

 定年後は、戦友の消息調査と慰霊にかなりの時間を費やした。戦争の記録、記憶を5冊の本と備忘録につづった。10年5月現在、能代の乗組員が24人生存していることを確認している。

 当時を振り返ると、理不尽なことも多々あった。悲惨な光景は二度と見たくない。「戦争は決して起こしてはならない」と痛切に感じている。

(2010年6月28日付紙面掲載)

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